第二章 続・お前が証人だ
物部守屋と山下奉文
一
山形市松山の千歳山公園に、物部守屋の碑がある。明治二十九(一八九六)年十二月二十三日の建立で、篆額(てんがく)が有栖川(ありすがわ)宮熾仁(たるひと)親王、撰書が伯爵東久世通禧である由が刻されている。熾仁親王は、
宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな、トコトンヤレトンヤレナー
の「トコトンヤレ節」(軍歌第一号ともいわれる)で有名な官軍の総大将。そんな有名な大将の篆額のある碑なのだから、少しは大事にされてよいはずなのに、今は顧みる人もない。蔦を這わせて空しく立っているだけである。
物部守屋(?―五八七)は、仏教伝来に反対し、蘇我馬子(?―六二六)と争い誅伐された人。廃仏毀釈の叫ばれた明治時代に、その復権を主張する人達が現れてもおかしくなかった。こういう碑が他所にも建てられたか、出羽国だけかは知らないが、とにかく今は振り返る人もなく、ただ立っているのは淋しい感じがする。権力争いに敗れた人の復権の難しさを感じさせる例である。
最初に物部守屋碑のことを書いたのは、仏教伝来を語るためでもなく、守屋その人を語るためでもない。
戦後五十年を過ぎた今、その名誉の復権を考えるべき一人の将軍がいたのではないかということを述べるためである。その一人の将軍とは、第十四方面軍司令官山下奉文である。
山下は、昭和二十年九月三日に、米軍に降伏調印し、十月、戦争犯罪の軍事裁判に附され、十二月八日、絞首刑の判決を受けた。そして翌二十一年二月二十三日、午後三時五分にロスパニオスにおいて絞首刑に処せられた。記録はそうなっており、われわれは捕虜収容所において洩れ聞いたが、これはマッカーサーの報復心がさせたリンチであったと思う。 山下がもし、国際軍事裁判にかけられていたとしたら、無罪か短い有期刑であったであろう。その事をマッカーサーはドイツの国際裁判などの例から感知していた。それで極東軍事裁判所が開所される前に処断してしまったのである。極刑の絞首刑――それもマンゴーの木に吊るすという残忍なやり方で処刑してしまったのである。
二
終戦直後のフィリピンにおけるマッカーサーは復讐の鬼と化していた。その事を私は前稿に書いた。降伏した日本兵に対して彼の採った虐待の手段は、ジュネーブ条約も国際赤十字の精神も無視した残忍なものであった。降伏者の一割強に当たる二万人を、たった二カ月間で殺してしまう非道なものであった。
〈補訂〉前稿で、私はボントック道の六十キロ行軍中、携帯口糧三食分が支給されたようだと書いたが、その後の検討で食料も水も全く支給されなかったことが判明した。三食分が支給されたのは、海岸線のバウアンにおいてであった。この点について東京の平田耕造氏からも指摘を受けた。
捕虜のうち、将校や軍属は特別待遇を受けた。食事は劣悪だったようだが、重労働は課せられなかった。その点では米軍はジュネーブ条約を順守したようだ。それからカランバ村に第13キャンプという特別待遇の場所を造り一部の下士官・兵のPWを優遇した。ここでは食事はあり余る程出て、食べ過ぎて死者も出たことを、村上喜重氏は『生魂』に書いている。村上氏の場合は、足を病んで歩けない状態のとき、カバヤンにおいて部隊から捨てられ、単身遅れて武装解除を受けたのであった。「集録『ルソン』」の発行で、第43回菊池寛賞を受けた大分の佐藤喜徳氏も、優遇キャンプに入った一人のようである。
三
比島の戦記類は数多く出ており、捕虜収容所について記述した本もあるが、特別待遇者のものばかりである。重労働キャンプのことを書いた本がないかと思って注意して見ているが、私の目に触れたものはない。一般読者も、それ故、優遇者の本によって、比島捕虜収容所を想像しているわけだが、天と地の差があるのが実態であった。極楽と地獄の違いがあるのが実情であった。「「米軍の扱いは人道的であった」というのは、第二次キャンプ以降については正しい。第二次以降、第四次キャンプまで米軍の態度は一変し、われわれを人間扱いしたからである。だが第一次の二カ月間は、ごく一部の人にしか通用しないことであったのである。
たった二カ月間で・、二万人の日本兵を死に追いやった第一次キャンプのことを、誰かが書いてくれないかと思い、私は永く待った。しかし、誰も書かないことを知った時、小説の形でならば書けるのではないかと思い、ある高名な戦争小説家に手紙を書いた。返事は「書きたい、書こう」というものであったが、五年経ち十年経っても実を結ばなかった。それから「収録『ルソン』」ならば特集を組んでくれるのではないかと思い、資料を送ったが、「少し調べてから」ということで見送られ、その雑誌もこの問題に手をつけず終刊を迎えてしまった。
戦後の日本に、救世主の絶対者者として君臨したマッカーサーにも、ヒトラーやスターリンに劣らない冷酷非道な面があった。彼を鬼を退治した桃太郎の如く尊敬している人も多くいると思うが、絵本のヒーローの如き良い面ばかりを持った人ではなかった。戦後五十年を過ぎたいま、正は正、非は非として見分けるべき時期に来ているのではないだろうか。
それでも男か ――厳戒地域への潜入――
一
昭和二十一年の九月頃のことであったろうか。第四次捕虜収容所の所長、DRINK(ドリンク)・WATER(ウオーター)中佐が、われわれPW(日本兵捕虜)に対してお触れを廻した。内容は、アメリカ軍は日本兵捕虜に対し、できる限りの自由を与え、最大限の支給を施してきた。それでも尚かつ不平、不満、不足があるものがいたら、何なりと所長まで申し出よ、というものであった。 所長名のドリンク・ウオーターはもちろん仮名であった。第一次、第二次の所長名は全く知らされなかったが、第三次収容所から、所長名に階級を書いた看板が入口に立てられた。第三次の所長は、GREEN(グリーン)・PEAS(ピース)(中佐)であった。最初、私は妙な名前だなと思いつつも、アメリカは広い国だから、こんな名の人もいるのかと思った。しかし第四次の所長が、「飲料水」であることを見て、どちらも仮名であったことを悟った。米軍は、遠い先の再報復のことまで考えて、本名を伏せていたのであった。 そのお触れは、一べつするだけで次の人へ廻され、誰ひとり何も書こうとしなかった。そして私の所へ順番が廻ってきた。私も一読して次へ廻そうと思っていたが、文中に「不足」とあるのにひっかかった。その頃、私は眼鏡の片方をこわし、難儀していた。強度の近眼の私にとって、片方だけの眼鏡は不便で仕方がなかった。それを書こうか書くまいかと少しためらった。それに誰も何も書かなければ収容所生活に満足しきっていると見られるのも癪な気がした。それで私は「作業するのに難儀している故、眼鏡を支給してほしい」旨を書いたのであった。
二
それから三日ほど経って、私は事務所前に呼び出された。荷物をまとめて持ってくるようにという事だったので、何事かと思って行ってみると、本部係の日本人(二世米兵かセンパイPWか不明)が、この前の通達の件で、車が迎えに来ているが、どうするかと聞いた。そして「止めるなら止めてもよいと、運転手が言っているのだが」と付け足した。「自分以外に誰もいないんですか?」と私が聞くと、「そうだ。おたく一人だけだ。どうするかね」と同じ答えをくり返した。そしてつぶやくように「断るなら、車に帰ってもらうがね」とつけ足した。
一万人も収容されていたであろう大キャンプの中で、不平、不満、不足を申し出たのが私一人であったことを知った時、急に不安な気持ちが芽生えた。そして「おれ一人だけなら止めにします。車に帰ってもらって下さい」と返事をし、きびすを返した。そして幕舎に戻ろうとして一歩を踏み出した。
丁度その時である。私の行く手を阻む映像が、眼前に大きく顕れた。森瑞樹先生の顔であった。その顔が「オイ、ゴトウ。それでも男か」と言った気がした。
森瑞樹は山形高等学校の恩師で、西郷南洲の信奉者であった。校内に「智徳会」と称する私塾のようなものを開き、週に一度、「南洲翁遺訓」の輪読会を行い、私も塾生の一人であった。思想の未熟な私に最も強い影響を与えた精神主義者であった。その先生が、仲間がいるなら行くが一人だけなら止めるという私の優柔不断を責めているような気がしたのであった。
廻れ右をした私は、前より強い口調で「やっぱりお願いします」と、前言を取り消した。そしてクルマこと大型トラックの荷台に乗りこんだ。作業場へ行く場合は、五十人位一緒に乗せられる荷台にたった一人で乗り、PW移送には一人でも大型トラックを使うことを知った。運転手は二十歳位の白人兵士で終始無言であった。階級章もつけていなかった。
三
米軍のPWに対する隠匿主義は徹底していて、氏名や階級を教えないだけでなく、声も聞かせなかった。命令や指示も、物陰で通訳に話し直接語りかけることがなかった。簡単なことは手真似で指示し音声を聞かせることがなかった。一年も経てば、両者の間のわだかまりも薄らいできていたが、その方針を変更する気配は全く見せなかった。
従って第四次キャンプが何処にあったのかも私は知らない。マニラの東北方、遙か離れた無人地帯にあったらしいことは気付いていたが、地名は分からなかった。とにかく「飲料水」キャンプから、二時間半ほど南へ南へと進み、目的地へ到着した。
運転手の手真似に応じて降車すると、「先輩」風のPWがいて、見知らぬキャンプ内を案内してくれた。戦中捕虜のことをわれわれは「センパイ」と呼び一目置いていたが、彼らの態度はどこか横柄であった。
「ここはどこですか?」
と私が尋ねると、彼は、
「ここは未決キャンプだ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
未決キャンプというのは、戦犯容疑者が裁判前に拘置される所だと聞いていたので、物騒な所へ来てしまったな、この俺を労働拒否の罪名で裁判にかける積もりだろうかという思いが頭をよぎった。先輩風PWは、更に奥の方へ案内し、二重の有刺鉄線の柵に囲まれた二並びの、屋根のある小屋を指差し、
「あれは死刑囚の独房だ。この辺はうろつかないように」
と注意した。見ると全く窓のないトタン張りの建物で、中は蒸風呂のように暑かろうと想像された。
しかし、山下奉文も本間雅晴も、処刑前にここに収監されていたことを知ったのは、何年も後になってからであった。
山下奉文の獄中遺詠
第一収容所略図
一
先輩(戦中捕虜)風PWが、死刑囚の独房だと言って指差した建物は、二重柵の鉄条網の中に二並びに建っていた。プレハブの作業小屋を四つ位横並びにくっつけた大きさで、軒下は波トタン状の鉄板で囲われていた。窓はどこにも見えなかった。守屋正氏の『比島捕虜病院の記録』には「上下に空気ぬきの窓が開いており、窓には上下とも数段の横棒が渡してある」と詳細に記してあるが、もちろん私に中の様子まで分かろうはずはなかった。
フィリピンは熱帯の国で、連日三十度を超す暑い国である。だが日蔭に入り風通しがよければ結構しのぎやすい。その反面、風通しが悪ければ耐え難いむし暑さに襲われる。われわれは幹部候補生時代にそれをマニラ湾の港湾の作業で体験していた。鉄板の熱が加わって気温が四十度以上に上昇し、居たたまらなくなるのだ。
既に死刑が確定し、刑執行を待つだけの身に、更に暑熱の苦しみを与えたのがこの独房であった。従って私は、死刑囚と聞いても、山下奉文や本間雅晴と結びつけて考えることができなかった。ちらと頭をよぎったことは事実だが、まさかという思いで打ち消した。これはよほど重い罪に問われた下級者の独房だろうと思ったのであった。しかしこれも守屋氏の記録によって分かったことであるが、山下奉文も本間雅晴も刑執行前に収監されていたのが、まさしくこの独房であったのだ。守屋氏の著書はこのあたりの事情を、直接将軍たちの世話をしたPWから聞いて、克明に記録してくれているのである。
ガイドのPWは私に、食事の受け取り場所(キッチン)、水飲み場や便所などを教えたあと、寝起きする幕舎へ案内してくれた。それは守屋氏著書の図に「未決テント(将校)」とある幕舎であった。当時、将校は復員を完了していて、そこが下士官・兵用に代わっていた。図の「猿(注)小屋」もその前の・じこめられていた所という。
二
幕舎内には先客が五人いた。折り畳みベッドの上に、みな横になっていた。私は入口で頭を深く下げ、「よろしく」とも「お願いします」とも言わなかった。名告ることもしなかった。名告らない、聞かない、詮索しないが捕虜収容所での不文の掟であったからである。こちらが仮に「後藤です。よろしくお願いします」と言えば、先方も「○○です。よろしく」といった応答を返さなければならなくなる。虜囚の身を置く収容所ではそれが禁句であった。並んで寝起きしても隣が何者なのか分からぬままであった。
食事の知らせがあれば、フライパンのような食器をぶら下げてキッチン前まで貰いにゆく。その外は排便と水飲みだけ。キャンプ内を散歩することもできない日々が続いた。高い所から監視されての生活であったから、われわれも複数の行動は避け、食事貰いも二人揃って行くようなことはしなかった。作業は全然無かった。森瑞樹山高教授の幻の声に一喝されてここまでやってきたものの、何の説明も指示もない不気味な毎日であった。私はひそかに、不平、不満、不足を申し立てて他のキャンプから送られて来た人はいないかと探ってみたが、誰もいないようであった。
飯を貰いにキッチンへ行くと、独房の端との距離は六メートル位に接近した。しかし建物の中からは物音一つ咳(しわぶき)一つ聞こえなかった。中に誰もいないのではないかと思われるほど森閑としていた。守屋氏の図によると、プレハブ長屋の真中に通路があり、両側に小部屋が八室ずつ計十六室があり、二棟で三十二室あったことになるが、身を置くことがやっとの広さしかなかったのではるまいか。
三
そのキャンプ(第1キャンプであったことが守屋氏の図で分かる)へ行っ
って、十日目位であっただろうか。午後八時過ぎに「演芸会をやるから、キッチン前に集合するように」という連絡が入った。″演芸会″という言葉を聞いた途端に、私はこの場所にふさわしくないことをやるもんだと思った。しかし退屈し切っていた時なので、言われた通りキッチン前けでなく、棒マイク一本が立てられているだけであった。スピーカーは柵内の独房に向けられていた。
背の高い頑丈そうなPWが、マイクの前に立ち、「では演芸会を始めます。先ず安来節を唄います」と言って、二曲ほど唄った。下手な安来節であった。「次に漢詩を吟詠致します」といって吟じ出したのが、山下奉文(注)の遺詠であった。
七言律詩 山下奉文獄中作
天日は灼(や)くが如く 地は瘴癘
討匪制冦 一春秋
殉国の忠士 幾百千
卒然として拜す 停戦の大詔
謹んで承(う)け 戈(か)を投げ 血涙降る
聖慮は深遠なり 心腸に徹る
悵恨無限なり 比島の空
吾七たび生まれ 誓って神州を興さむ
の一篇を朗々と吟じ出した。美声であった。
吟じ終わると、独房内にどよめきが湧いた。死んでいた独房がにわかに蘇り、「もう一度頼む」「もう一ぺんやってくれ」などという声がざわめき出した。
その時の重なりあった声を私は忘れることができない。裏の長屋の声は聞き分けられなかったが、同じような注文を口々に言ったものと理解された。
それに応えて長身の男は「卒然として拜す」以下を又吟じた。そして演芸会は終わりを告げ、独房は死の閑けさに戻った。午後八時
になると本部勤務の米兵が引き揚げ、たまに哨兵までいなくなることがあったというが、その隙をついての演芸会であったようだ。
(注)原漢文。山下奉文の辞世ともいうべき遺詠には、他に七言絶句の漢詩一篇と和歌三首がある。
牢獄キャンプ
一
終戦直後、ルソン島ラグナ湖南岸のカンルバン村に設けられた第1キャンプは、死刑囚を監禁しておく牢獄キャンプであった。一般捕虜(PW)はもちろん、一般米兵(GI)も現地人も近付けさせない厳戒地域であった。一枚の写真とて残されていないが、それだけにそこに連行され拘禁された私としては、もう少し内部の模様を語っておく必要があろう。
そこは四町歩位の広さのやや東西に長い長方形のキャンプであったが、手前の二重柵(そこをくぐって中へ入ると、また二重の柵があり、その中に死刑囚の独房長屋があった)の間には監視櫓が十五基も取り巻いて立っていた。しかも櫓は、一般キャンプのものより倍ぐらい高かった。(一般キャンプの櫓は、東西南北に四基で、高さも十メートル位のものであった)そして三角屋根の下の哨兵のいる場所は、薄水色の板(特殊ガラスか)で囲われ、中の人物が見えないようになっていた。(一般キャンプのは裸で、哨兵の姿は丸見えであった)三角屋根にはサーチライトがついていて、夜間も昼のように明るく構内外を照らしていた。
従って未決テント内の我々の行動も、逐一観察されていた。横幕は捲り上げておくよう言われていたので寝姿までがどこかの櫓から監視されていたものと考えられる。それ故、われわれ六人の住人も、一つおきに離れてベッドに寝、外に洗顔に行く時は、わざとタオルをぶら下げて出、食事貰いの時は食器を前後に振って行くなど、気を遣って過ごした。
第三次のグリーン・ピース収容所、第四次のドリンク・ウオーター収容所では、碁や将棋、花ガルタなどの遊び道具(ボール紙で造ったPW手製のもの)が備えられていて、余り退屈しないで済んだ。また作業先で新聞の切れ端(「マニラ・タイムス」という新聞が主であったが)を拾ってきて、世の中の動きも若干は知ることができた。しかしここでは何の遊び道具もなく、情報を知るすべもなかった。(前掲の図に「掲示板」があり、そこを覗けば何かの情報があったかもしれないが、そのあたりまで歩を進め勇気もなかった)時は無為に流れ、私の後悔の念も徐々に強まりつつあった。
二
そんなある時、反対側にいた色白の恰幅のいいPWが、とつぜん「あっしは小学校もろくに出ていない無学な男だが」と話し出した。誰に向かって言うともなく、天井を向いたまま独り言のように話し出したのであったが、その内容は、
俺は無学な男だが、家が貧乏なため、京都の老舗に丁稚奉公に出された。ところが奉公先の親方夫妻に認められ、一人娘の入り婿になることになった。結婚式も済ませ、一室に退いて、見ると床が二つ並べて敷いてあったので、その一つに寝た。そのまま一週間位経った時に娘御が「夫婦になったら、一つの布団に寝るというじゃありませんか」と言うので、女の蒲団に入り並んで寝た。又そのまま一週間位過ぎて、女が「夫婦になったら、男の人が女の上に乗っかるというじゃありませんか」と言うので、言われた通り上に乗っかった。
「あっしはほんま、何も知らなかったんですなァ」と言って、彼は含み笑いをした。この事実とは信じがたい色咄が、幕舎内の澱んだ雰囲気を少し柔らげてくれた。
するとその横にいた、ずんぐりした背の低いPWが、釣られたように「これはレイテから来たPWに聞いた話だが」と前置きして語り出した。
レイテの捕虜収容所は、激戦地跡の海岸に造られていた。そのためか夜な夜な日本兵の幽霊が出た。――幕舎の入口に正装した日本軍人が立っているので、アレッ? と思って見ていると、その軍人がこちらを向く。と同時に軍帽の星(注)がJ注)ピカッと光り、つかつかとこちらに歩み寄ってきて、ものすごい力でベッドに抑えつけてしまう。それでたまらずギャーッと悲鳴をあげる。そういう悲鳴がそっちこっちの幕舎から上がった。――一方、幽霊は監視櫓の米兵にも出、こちらは銃剣をかざしつつ集団で櫓を攻めのぼった。それで哨兵たちもたまらず自動小銃を乱射したが、それも夜毎つづいた。――そこで構内の骨片を集め、祭壇を造って僧侶と神主の経験者に頼んで供養をしてもらったところ、それ以後、幽霊は出なくなった。
という内容であった。語り口が上手なためか、たいそうリアルに聞こえた。しかしその時はまだ、私が間もなく、幽霊達の一斉呼びかけの声を聞くことになろうとは思ってもいなかった。
(注)星の紋章のついついた軍帽は礼装用で、戦地には持って行かなかった。戦地では紋章のない略帽だけであった。
三
ところで、米軍がなぜ火の見櫓のように高い監視櫓を立てたのであったろうか。構内を監視するだけなら十メートル位の櫓で充分だったはずである。二十メートル以上もある櫓では却って下
がよく見えないのではないかという気もする。だがこれには深い訳があったようだ。俗説としては、敗残の日本兵が付近の山から囚人、特に山下奉文などの奪回に来るのではないかを案じ、遠方まで見えるよう高くしたのだともいう。守屋正氏もその考えに同調しているようだ。しかしこのあたりは平坦地であるから、この推察は当たっていないように思う。それよりむしろ独房内を監視するためであったと私は思う。天井の窓を透かして中を覗くためであったのではないか。
鋼鉄の箱の中に入れられた囚人が、外に逃げ出すことなど無論できない。だが簡単な用具さえあれば自殺することはできる。その自殺防止のための監視だったのだろうと思う。処刑前に自殺されれば、折角の軍事裁判が無駄になってしまう。特に山下奉文や本間雅晴のような高官が獄中で自殺したとあっては国際問題にもなりかねない。それを危懼しての監視だったのでのではないか。日本軍ならば歩哨を立てて監視するところだが、それだと横窓が必要になる。その代わりに高い櫓を組み、天井窓から監視していたのだろうと思う。山下将軍の食事の支給に際しては、飯の一粒一粒まで丹念に検査をしたというが、これも自殺を助ける何かが隠されていないかどうかを案じたための処置だったろうと思う。
平成四年四月、われわれ「山形お楽しみクラブ」の面々は、スイスのレマン湖に浮かぶシオン城を見学した。中には地下牢や首斬り台及び用具があって、その陰惨さは目を覆わんばかりであった。しかし私は地下牢の中を覗いてやろうと足元の穴から目を凝らしたが、中は全く見えなかった。そして上方の光だけでは中は明るくならないことを知ったのであった。
鉄板に囲われた第1キャンプの独房は、まさにこの地下牢に匹敵するものであったが、サーチライトなくしては中の挙動は探知できなかったものと思われる。
二万の霊たちの声
一
捕虜(PW)の処遇について、たった一人、不平、不満、不足を申し述べたため、私は牢獄収容所であった第1キャンプへ連行された。米軍側としては「生意気なジャップだ。未決テントに一カ月もぶち込んでおけ」ということだったかもしれないが、結果として極秘地区への私の潜入を許したことを意味していた。「蟻の一穴」とは、まさにこのような手抜かりを意味するための言葉だったかもしれない。米兵達さえたやすくは近付けさせなかった厳戒地帯へ私を導き入れたのであった。
ここで地下牢にも匹敵する独房の囚人達に目を転じてみよう。彼らは一体どういう罪に問われたのであったろうか?
先ず第一に考えられるのは、捕虜虐待の罪である。敗走中の捕虜の扱いは思いやられ、特に暴力行為をしなかった者も憎しみを買い糾弾を受けたであろう。責任者の洪中将(捕虜収容所全体の責任者。半島出身で李王家の親族)をはじめ、大体が絞首刑に処せられたが、下級者で処刑を待っている者がまだいたかもしれない。
次に憲兵の住民虐殺行為が挙げられる。憲兵にはゲリラの処断が許されていたが、たびたびその疑いがあるというだけで良民を殺害することがあった。「ケンペイ」という日本語が住民達に知られ悪魔のように恐れられていた。その憲兵が槍玉に挙げられ、住民の首実験の結果、軍事裁判にかけられ死刑の判決を受けた者も収監されていたであろう。
部隊関係者でも、無差別の襲撃で村民達を斬殺した場合があり、その罪に問われた者もいたであろう。
だが彼らが罪状通りの本人であったかどうかになると、たいへんあやしいのである。
二
第二次、第三次の収のころ、伊藤、会田、佐藤、渡辺、田中、鈴木、高橋などの姓の者が集められ、柵外に連れ出されたことがあったが、それは戦争犯罪の首実験のためであった。一列に並ばされた同姓者を、訴人の現地人が見てまわり、こいつだと指名すれば、ただちに裁判にかけられ、死刑の宣告を受けた。弁護なしの一方的裁判だったようで、誤審も多かったものと見られる。
特に憲兵の場合、武装解除の折に、兵科も氏名も変えて偽名で申告した者が多かったというから、身代わりになって死刑の判決を受けた人が多数いたものと思う。というより、その方が多かったと思う。
全体的に見ても、半数以上の者が無実の罪を着せられたと考えられ、私が連行された頃も多くの無実者が独房で死を待っていたと見られる。だが彼らはわめくことも吠えることもせずおとなしくしていた。ただ二度ほど深夜近く騒がしくなったことがあり、大声を出したり詩を吟じたりするのを聞いたが、それは多分処刑場へ引き出される際の騒ぎであったのだろう。それと推測されても、われわれはただ息を呑んで聞いているしかなすすべがなかった。
このようにして永い四週間が過ぎた日の朝、私は呼び出されて、トラックに乗った。車も運転手も来る時と同じであった。そして少し行った所で一人のPWが黙って乗り込んできた。するとたちまち眼前に大墓標群が見えてきた。その時の状況は前にも述べたが同乗者の口から、
(一) 白い墓標の数は、かっきり二万であること。
(二) 複数埋葬はなく、全部単独埋葬であること。
(三) 山下奉文や本間雅晴の墓標は、その中に含まれていないこと。
などを知らされたのであった。彼は埋葬の仕事に携わってきた軍曹のPWで、自信に満ちた言いぶりで私にそれらのことを語ったのであった。
そしてそのすぐ後に″お前が証人だ″という霊達の一斉連呼を聞いた。同時に右前方の一角からだけ″お前が証言しろ″という声が挙がったのを聞いた。張りのある声で、弱々しさはみじんも無かった。幽霊の姿を見た人は多いと思うが、声を聞いた人は少ないと思うので、もう少し説明すると、その声は油絵に対する水墨画のような声であった。遠近法は守られていて、遠方の声は砂を崩すように波打って聞こえてきた。先頃のテレビドラマ「町」(倉本聰脚本、平成9年11月28日、さくらんぼテレビ)に出てきた岩本老人の幽霊の声とは異質のものであった。
声もさることながら、霊達が一斉に私を「お前」と呼んだことに強い驚きを覚えた。「オマエ」は山形方言では尊称だったが、共通語や軍隊用語では卑称であった。下級者が上級者に対して使ってはならない言葉であった。そして見習士官の下には、
曹長―軍曹―伍長―兵長―上等兵―一等兵―二等兵
の七階級があり、被埋葬者の大部分の階級も右の何れかに所属していた。戦死による二階級特進ぐらいでは及ばない隔たりの者も多かった筈であった。しかし私は、
「彼らは死ぬことによって、全員が私の上位者になったのだ」
と、戦慄を覚えつつ納得するほかなかった。
三
私はトラックの上で姿勢を正し、挙手の礼をしたあと、埋葬担当のPWに、自分の部隊名、階級、出身県を述べ、ぜひ貴方のそれも教えて貰いたいと所望した。そのことは、巻頭にも書いたが、私が証人になるためには、証言する場合はなおさら、この男の助けが必要になると考えたからであった。すると相手の男も姿勢を正し、挙手の礼を返したあと、部隊名と階級、氏名と出身県を教えてくれた。
囚われて一年、奴隷根性に漬かりはじめていた私も、霊たちの声によって目が醒めたのであった。うかうかしてはおれないと思うと同時に、重い荷物を背負わされた気がしたことであった。
それにしても二万の墓標というのは物凄いものであった。読者の中には京都の大谷廟の墓石群を見て圧倒された方も多いと思うが、それでも墓石の数は一万二千だという。大谷廟の一・七倍という大墓標群がいかに凄いものであるか想像していただけるのではないだろうか。
〔訂正〕私は『ルソンの山々を這って』(昭和50年)において、「モンテンルパの死刑囚の建物に隣接してあった未決囚のキャンプに、私も一カ月近く入れられたことがある」と記したのは、カンルバンの間違いであったので訂正したい。なおモンテンルパはラグナ湖の西の村で、カンルバンは南の村である。
白い墓標の数と誤った記録
一
カンルバン村に米軍が造った日本兵捕虜墓地の墓標数については、本により大差がある。先ずフクミツ・ミノル著『将軍山下奉文――モンテンルパの戦犯釈放と幻の財宝』(昭和57年)に、
○この日本人墓地には千九百三十一基の墓があるが、その中で戦犯刑死者は六十五人だ。
とあるのが最も少なく、次いで岡田録右衛門著『PWの手帳』に、
○墓標はいま三千近くもあるだろうか。
とあるのが少ない。次に守屋正著『フィリピン戦線の人間模様』(昭和53年)に、
○私はロイフの尽力で昭和二十一年七月三十日に八カ月間朝夕眺めたマキリン山にも、病院の隣りの一万近い白い墓標にも別れを告げて、いろいろの思い出のある病院を後にした。
とあるのがやや多く、同人がその五年前に出した『比島捕虜病院の記録』(昭和48年)に、
○帰国の希望に胸をふくらませながら、不幸にも病魔に倒れた幾万の兵士たち、また山歌兵士たち、また山下大将をはじめとする戦犯処刑者の墓所である。
とあるのが最多の数である。
フクミツ氏は、モンテンルパに残された戦犯釈放に尽力した二世であるが、墓の数の記録はでたらめである。千九百三十一基という尤もらしい数字を挙げているので、憶測で書いたものではないらしいが、これがアメリカの正式記録とすれば虚偽も甚だしい。
岡田録右衛門氏は軍属で、重労働なしのキャンプに入った人。墓標の数を「三千近く」と見たのは、捕虜移送期直後にそれを見、後は見ていないことを示す。東京の平田耕造氏も最終的移送者の一人であるが、到着時に三千位の墓標を見たと証言している。
守屋正氏は軍医で、墓地に隣接する捕虜病院に七カ月間も勤務していた人。その証言は最も信憑性に富むと思われるが、それでも「幾万」から「一万近く」と、大幅に記憶が動いている。
二
埋葬の作業をし、その後墓地保全の仕事をしてきた下士官から、の数がかっきり二万であることを聞いた時、私は強い衝撃を受けた。そして幾つかの質問を了えたあと、それまで覆っていた疑問の霧が晴れていった気がした。同時にそれまで私は、大きく間違った推測をしていたことに気付いたのであった。
それまで私は、第一次収容所の時の虐待を、所長の私的報復と思っていた。バターン半島でひどい目に遭った所長が私怨を晴らすためにやった虐殺作戦だったと思っていた。しかし第一次収容所第10キャンプの捕虜の総員は二万人、仮にその一割が死んだとして二千人、二割が死んだとして四千人にしかならない。そして全体の二割までは死ななかった、とすればこれは多くの収容所から集められた死者の墓だ――ということがピーンと来た。同時にこれは計画的に造り出された墓地だということがピーンと来たのであった。
第一次収容所の二カ月間を、運悪くひどい所長のいるキャンプに入ってしまったと思っていたのは、私だけではなかった。優遇キャンプを除くすべてのキャンプのPWがそう思っていたと思う。二万基もの墓が造られていたことを知らなかったからである。大所から物を判断する材料を与えられていなかったからである。
たまたま私一人が墓地を見、下士官に遇って墓の数を聞き、はっと思った途端に、霊たちの大連声があり、全容が見えてきたのであった。証言できるのは俺一人だけかもしれない、証人たり得る者も俺一人だけかもしれない――と思うと、全身にずっしりと重い荷を負わされた気がしたことであった。
三
第十四方面軍の副参謀長、宇都宮直賢少将が、フィリピン全体の戦死者の統計を出していることを知った(平田耕造氏報)。それによると、
○フィリピン全体の戦没者
陸軍 三六九、○二九人
同参加兵力 五○三、六○六人
海軍 一○七、七四七人
同参加兵力 一二七、三六一人
戦没者合計 四七六、七七六人
参加兵力合計 六三○、九六七人
とある。
この統計は、終戦から武装解除に至る約二週間の間に、各部隊に調査報告をさせた資料に基づくと思われるが、捕虜墓地の二万人は含まれていないと考えられる。宇都宮少将も優遇キャンプに入った一人であるから、下士官・兵キャンプの大虐殺を全く知らなかった。それ故、統計に加えなかったと見られるが、正確な数字とは言い難い。
重労働キャンプに入った下士官・兵達は、虐待の実情について何も語りたがらない。今更思い出したくもないというのであろうか、話に乗ってこない。後半期の好待遇の時のことのみを語る。例外は四国高松の多田重美氏と山形県朝日町の菅井正一郎の二名だけであった。他は「収容所の演芸会は楽しかったですナア」などと言って話を逸らしてしまう。
婦人キャンプにいた女性達も同様である。婦人キャンプは、捕虜墓地に接してあったので、私は東京の加藤三千子さん(元従軍看護婦で米軍上陸直前に帰国した人。『白衣の風月花』などの著書がある。二年前まで常陸宮邸の女官を勤め、ナース達の信望を集めていた人)を通じて、墓地のことだけでも語ってもらいたいと思ったが、全く駄目であった。何も話したくないと言っていますというのが、その返事であった。「集録『ルソン』」の佐藤喜徳氏も、彼女達の口を開かせようとトライしたが、全く応じてもらえなかったそうだ。
なお山下奉文、本間雅晴をはじめとする戦犯の処刑者は、墓を造らなかった事は前にも述べたが、冒頭引用のフタミツ氏や守屋氏は墓標群に含まれると見ている。それは誤解であり間違いであることを改めて指摘しておきたいと思う。
かぐや姫のようなナース達
一
元ナース達が戦争や捕虜時代のことを何も語りたがらないことを前項に書いたが、その気持ちは私にもよく分かる。男でも語りたがらなかった人がいたからである。
小関正男君は、山形県河北町西里の生まれで村山農学校の同級生であったが、語りたがらない典型であった。彼とは第三次のグリーンピース・キャンプで偶然一緒になったのだが、その時はニューギニアの悪戦と比島の苦闘のことを事細かに語ってくれた。輸送船で救命胴衣なしに遭難し、海上に残ったマストの尖(さき)に一昼夜しがみついていてやっと救助された話も手に取るように話してくれた。昭和二十年十一月になってやっと終戦を知り、米軍に収容される際のスリルに満ちた行動も鮮明に話してくれた。
その小関正男君と再び会って話をするようになったのは、彼が山形県大江町の助役を辞めて閑職についてからであるが、全く戦争時代の事を語らない男に変貌していた。私が、
「君のようにニューギニアとフィリピンの二つの戦闘に参加した人はごく稀だ。戦争の悲惨さを後世に伝えるためにも、その体験をぜひ書き残してくれ」
と言っても聞き流すだけで反応がなくなっていた。二度目の時も三度目の時も同じであった。
四度目の時は、彼を少しきびしく責めた。俺が聞き書きしてもいいとも言った。すると彼は、かぼそい声で、
「見えてきて駄目なんです」
と言って肩を落とした。
村山農学校では応援団長をした剛毅タイプの小関君にしてそうなのだから、元ナース達が何も話したくないというのも尤もである。骨と皮ばかりになってルソン島の山奥を彷徨した時の事など、思い出したくもないという心情は理解できた。
二
カンルバンの捕虜墓地がいかに広大なものであったとは言え、その柵の前をトラックで通るのに、十分とかからなかった。しかるに私の原稿の方は二カ月もそこに停滞してしまったので、先を急ぐことにしよう。
左折したトラックが停まったのは、大きなテントの前であった。門に「HOSPITAL」とあり、捕虜
病院であることが分かった。運転手が手真似で、あそこへ行って又戻ってくるよう指示したので、私はテントをくぐった。
中は百五十畳位の広さで、左右に低い机が十位ずつ並べてあり椅子も置かれていたが患者の姿は見えなかった。医師らしい人が二、三人と五、六人の看護婦の姿が見えた。
その時見た看護婦達は美しかった。天使のように輝いていた。山の中でたまたま出遇った時の姿からは想像もできないほど、ふくよかになり色白になり艶やかになっていた。白衣を着て襟元に赤いスカーフをのぞかせる程度のお洒落しかしていないのであるが、どの人もこの人もかぐや姫のように照り映えて見えた。これが日本人女性だったのかと思うと、陽焼けして半黒人のようになってしまった自分が恥ずかしくてならなかった。それでも私は、彼女達の動きを目で追うことを止めなかった。
少し経って眼科医らしい日本人が側に来て座った。カルテのようなものを手に取って、
「視力が弱いんですね」
と私に問いかけた。私は即座に、
「いいえ、もういいんです。眼鏡を壊した当座は困ったが、眼鏡なしの生活に馴れて見えるようになりました。作業も一人前に出来ます。すぐ元のキャンプに帰すよう言って下さい」
と一気に申し立てた。
又も未決キャンプに戻され、そのために復員が遅れるようになっては大変だと思ったからであった。すると医師も了解したらしく、即座に私を放免してくれたのであった。
そしてその日のうちに、私は「飲料水キャンプ」に帰された。
三
ここで申し訳ないが、もう一度死刑囚キャンプに話を戻さなければならない。読者の中には『ロスバニオス刑場の流星群』(昭和56年・森田正覚著・佐藤喜徳編)という本をお読みになった方もおられると思うが、この本は山下奉文や本間雅晴の最期に立ち合った僧侶の書いたものである。数多い戦記の中でも間違いなく後世に残るであろうと思われる名著である。その中に出てくる死刑囚の独房と、私が前に書いた独房とは、全く別の物である。混同されるとややこしくなるので、少し説明しておきたい。
ラグナ湖の南辺には、西からカンルバン村、カランバ村、ロスパニオス村の三村がある。そして死刑囚独房棟を含む第一収容所は、カンルバン村にあった。しかるに森田師が最後の面接をした独房はロスパニオス村にあった。そこに米軍専用の刑務所があり、隣接して刑執行直前の独房があったわけだ。従って両独房の間は、二、三十キロ離れていたことになるのである。
昭和四十八年十二月、政府派遣遺骨収集隊吉富班のわれわれ十四名は、モンテンルパの戦犯処刑地を見た後、カンルバンの捕虜墓地のあったあたりを横断し、山下奉文処刑の地を探し当てた。そこには「将山下奉文終焉之地」という黒石の碑が置かれていたが、処刑直前の独房もそこから二、三分で行ける、ごく近くにあったわけだ。
なおその時、本間雅晴の処刑地も探したが、知っている住民はいなかった。本間が最後に入れられた独房も山下と同じ所だというから、その近辺での処刑と考えられるが、住民の証言は得られなかった。
〈補記〉小関正男君は、第三次収容所のタレントであった。二度ほど催された演芸会で、彼は大阪出身の男と組んで漫才をやった。そして山形出身とは思えない程の能弁で私共を楽しませてくれた。その小関君も戦場を語ることなく、四年前にあの世へ旅立ってしまった
本間雅晴夫人の証言
一
尾籠(びろう)な話で恐れ入るが、私は武装解除を受けて三日目の昭和二十年九月二十日に、バギオの仮設収容所で大便所に入った。そこは二十人位一緒に用を足せる造りになっていて、しゃがんでする和式に近いものであった。中に、比島人の若い女性が一人用を足していて頓狂な声を発したが、下痢気味だったので構わずに片隅で用を足した。
その時以来、第一次収容所の二カ月、第二次収容所の二カ月とつづけて、私は一度も大便をしなかった。食べたものが全部吸収されるらしく、便意を催さなかったのだ。
第三次の収容所に移り、固いご飯が支給されるようになってやっと大便所へ行くようになった。昭和二十一年二月の初旬のことである。数えてみると、百三十日余り大便をしなかったわけで、収容所の便所がどんな造りかも知らなかった。
それは、ドラム缶を半分ぐらい地中に埋め、上に四枚の板を渡し、腰を掛けて用を足す簡易洋式の便所であった。体はむき出しになるが、男同士のことだから別に気にもしなかった。
このように四カ月余も便通がなければ、普通の場合は生きておれないところだが、私は逆に健康を取り戻しつつあった。一頃二十キロ位まで落ち込んだ体重も徐々に増え、三十キロ代後半になっていたのではないかという気がした。取った養分を外に出さなかったからである。だから便通がなければ不健康だと一概に言えない理屈で、その証人が私だと思っている。
それはともかく、四カ月半振りの便通で、やっと人心地がついた気がしたことも事実であった。
序でに小便の話をすれば、一日一回位のわりにはしたように思う。微量の食事を取って炎天下で働きつづけたのだから、水ぐらいはがぶがぶ飲んだだろうと思われがちだが、そうではなかった。塩気も甘味もうすい食事だったので、水を飲みたいという気も起こらなかった。喉をうるおす程度には飲んだが、がぶがぶ飲むことはしなかった。無理をして水を沢山飲めばおしっこが出る。水だけ出ればよいのだが、なにがしかの栄養分を伴って体外に出てしまう。それが勿体ないので、体の抑制力が働いたのだと思うが、尤もな気がする。これも長期遭難などの時には役立つことだと思うので、ここに書きとどめておく。
二
第三次収容所の時から、捕虜の待遇は目に見えて良くなった。作業の方も軽った。われわれは、米兵舎のゴミ拾いをした後、作業につくのを例としたが、或る朝、私がキッチン前のゴミを拾っていると、屋内から古新聞が投げ出されてきた。これも拾って行けという意味だと思い、拾いあげてズボンのポケットに入れた。便所紙に利用するためであった。
すると中から一人の比島人作業員が出てきて、
「マダム・ホンマ」
と呟いて私の横を通り過ぎて行った。二月八日の朝であった。
ふと感付いた私が、新聞を取り出して見ると、軍事裁判における本間雅晴夫人富士子の証言が大きく取りあげられていた。さっきの比島人がそれを読めと、わざと私に拾わせたものであることが分かった。
私はそれを休憩時間に読み、キャンプに帰ってから又読み直したが、その時の感動は忘れることができない。
富士子夫人は、二月七日の証言台に立ち、
「わたくしは東京からマニラへ、夫のためにまいりました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、わたくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」
と、毅然とした態度で言い、更に、
「わたくしに娘が一人ございます。いつか娘が、わたくしの夫のような男にめぐりあい、結婚することを心から望んでおります。本間雅晴とはそのような人でございます」
と証言した所が大きく報じられていた。
数段抜きに大きく取り上げただけでなく、「マニラ・タイムス」の記者が感動しながら書いた書き振りになっていた。新聞の第一面は感情抜きの事実報道が多いものだが、その日の記事は違っていた。証言を了えて退廷する夫人に傍聴席の婦人達や男性が握手を求めたことなど誇張気味に書かれていた。日本人の記者が夫人びいきに書いたにしても、こうは書けまいと思うほど、当日の新聞は本間夫人に注目し、賞揚しているように見えた。
三
フィリピンは女権の強い国である。日本兵に対する憎しみや怒りも女性の方が強かったと思う。そして当日、傍聴席に来た女性も日本兵の被害者の母や妻が多かった筈である。従って本間雅晴本人を許す気は毛頭無かったものの、本間夫人の言葉や態度に共感し感動し、握手を求めたものであっただろう。
本間雅晴は結局、二月十一日に銃殺刑の判決を受けたが、捕虜虐待死の罪は絞首刑ときまっていた中で、罪一等を減ぜられたのは、夫人証言のお蔭であったと思う。
フィリピン人の対日感情の好転には、何段階かあったと思うが、その第一段階は本間夫人がつけたものと見て間違いはない。その頃から、石や泥をぶつけ、バカヤロー、ドロボーと罵るフィリピン人がいなくなったのは、われわれPWにとって、ありがたいことであった。
○昭和二十年十二月八日、山下奉文に絞首刑の判決。
○昭和二十一年二月十一日、本間雅晴に銃殺刑の判決。
○同年二月二十三日午後三時五分、山下奉文の刑執行。
○同年四月三日零時五十八分三十秒、本間雅晴の刑執行。
と、事は進められていった。
勇将と愚将
一
″勇将の下に弱卒なし″という言葉があるが、わが第二十三師団(旭兵団)長の西山福太郎中将は、勇将ではなかった。珍しいほどの臆病者であった。常に自分の命が狙われていると戦いている恐怖心の塊(かたまり)であった。
彼は敵が地上だけでなく空からも監視していると思い込み、日中は横壕深く隠れていた。連絡のため出入りする参謀達の行動も規制し、朝暗いうちか夕方暗くなってから来るよう制限した。自分の存在が敵から探知されるのを恐れたからであった。
リンガエン湾米上陸軍の正面部隊であった旭兵団Dは、このような臆病者の師団長によって統率されていた。戦記類や戦記小説、例えば山崎豊子著『二つの祖国』にせよ、高木俊郎著『ルソン戦記ーベンゲット道』にせよ、殆どその事に触れていないため、彼を勇将の如く扱う結果になっているが、それは間違いである。私はキャンプ3(スリー)とタキヤク(プログ山東南々地点)で二度西山に会ったが、稀に見る臆病な男であった。
名将の第一条件を私は、部下から尊敬される器者(うつわもの)かどうかにあると思うものだが、西山は部下の誰からも尊敬されていなかった。会う人すべてから見くびられていた。こんなのがどうして職業軍人の道を選んだのか不思議に思う程の小心者であった。
昭和二十年六月から終戦時まで、私はこの臆病師団長の司令部付になった。そしてそのお先棒を担ぐことになった。現司令部のあるタキヤクがあぶなくなったら、次の司令部を何処にするか、その適地を見つけるのが第一段階の任務であった。(とは言っても工兵のわれわれは、大尉の率いる師団直属の中隊にただ付いて歩くだけであったが)そして山中深く入り込み、敵から最も離れた場所で行動した。砲弾の音も飛行機の音も全く聞こえない比島の秘境で過ごすことができた。
それ故、人的損害は少なく、十名中一名を栄養失調で失っただけで済んだ。第一線とは比較にならない生存率の高さであった。私は二中隊の所属であったが、部下は一中隊と三中隊からの寄せ集めであった。もともとの部下は本隊に残してきた形になっていた。その残してきた部下も十名程はいた筈だが、終戦になって数えてみると、三名しかいないことが分かった。奥地に入った我々の生存率が九割なのに対し、三割の兵員しか残っていないことを知ったのであった。
結果的には、西山師団長の臆病心のお蔭で私は後半戦を楽に安全に過ごすことができたのであった。だが、だからと言って彼を誉めるわけにはいかない。
二
比島航空隊司令長官の富永少将は、レイテ島の敗戦が決定的になり、次はルソン島の番だと言われてさ中に、「われ比島に於ける任務終了せり」と、勝手に大見得を切って宣言し台湾へ逃げ去った。飛行機も特攻隊も残っているのに勝手っさと逃げ去った。この事はわれわれ陸軍兵士にも伝わり憤激させたが、彼は戦後多くの本によって糾弾を受けている。痛罵されている。
だが西山福太郎は見得を切ることもできない小心者であったため、批判を免れている。卑怯者というレッテルが貼られないだけ、富永よりは少し増しだったのかもしれないが、それでも批判を浴びてよい愚将であったことは事実である。
それに対してバギオにおける山下奉文の行動は立派だったと思う。城山(鹿児島市)における西郷隆盛の行動のように立派だったと思う。西郷は身を隠す深い壕を造らせず、立ってやっと体が隠れる程度の壕で作戦を指揮したが、山下の場合も同じであった。自分だけ助かろうとする施設を山下は造らせなかったし、敵が目前に迫るまでバギオを離れようとしなかった。昭和二十年四月二十四日にバギオは陥落したが、その七日前の四月十七日まで山下はそこに踏みとどまり動こうとしなかったのである。
三
比島最高峰のプログ山(二、九二八メートル)の東側を、南北に数十キロに亘って走る帯状の渓谷がある。そこに入るには、二千メートル級の峠を二つも三つも越さなければならないので、比島人も入りこまない未開の地である。新司令部の適地探しに我々が入り込んだのはその渓谷であった。一頃、ルソン島に首狩り族がいると報じられたのも、この渓谷の北のつづきの地(われわれが壕掘りをしたあたり)を指していたようだ。文化から隔絶された秘境である。
昭和四十八年十二月に、遺骨収集隊員としてカバヤンに入った我々は、範囲をプログ山東方にまで広げたいと希望した時、比警察軍の軍曹とカバヤン役場職員は、あぶないから止めろと警告した。
「つい先年、アメリカの生物学者二人が、そこをめざして入っていったが、二度とかえらなかった。そこへ入ったら命の保証はできない」
と言っておしとどめた。
結局、そこへ入るのは断念したが、しかしその渓谷に首狩り族のような獰猛な種族がいるように言うのは間違いだろうと思う。約四カ月間、その渓谷で過ごしてきた私の体験から言えば、そこの種族はおとなしくて臆病な人達だろうと思う。
そこでの敵は、人ではなく、峠付近に棲む無数の山ヒルと巨大な巣を造る蜂だと思う。アメリカ人生物学者も、このどちらかにやられたような気がしてならない。戦争中も、かなりの数の日本兵がこの二つによってやられた。針程の太さの山ヒルは、衣服の織り目から潜入し、何の痛みも痒みも与えず血を吸ってしまう。露出した皮膚にはつかないから、ついうっかりしていると大変である。ヒル地帯で露営などしたら、命を落とすこと必定である。また地蜂に似てその数倍の大きさの蜂も危険きわまりない代物である。巨大な丸い巣を造っていて、そこから大群で攻撃してくる時のすさまじた、地蜂に似てその数倍の大きさの蜂も危険きわまりない代物である。巨大な丸い巣を造っていて、そこから大群で攻撃してくる時のすさまじさは、地蜂の比ではない。へたりこまないで、どこまでも走って逃げないと殺されてしまう。
秘境と聞けば何処へでも行きたがるのが、日本の若者たちの気質のようだが、ここの秘境に入る場合は、この二つの生物に対する対策を充分に練ってから行ってほしいものだ。蚤の大群に出遇ったのもこの渓谷に於いてだが、しかし蚤は人の命までは奪わないから、大したことはないと言ってよいだろう。
自由の門
一
終戦後五十年以上経った今、捕虜時代のことを長々と書いてきたのは、当時の情況が正しく伝えられていないことによるものであった。しかし明るい内容のタウン誌(この稿の初出は「やまがた散歩」)にこれ以上、暗い話をつづけるわけにもいかない。なるべく早く終わりにするため、以下は要点のみを駆け足で記すことにする。
未決キャンプから「飲料水キャンプ」に戻されて、二週間位経って、復員のための移動が行われた。マニラ港の仮設キャンプに入り、乗船の準備と手続きに入った。
翌日、事務所に呼び出されて行ってみると、机上に署名簿が置いてあった。文面は「多大の損害と迷惑をかけたフィリピンの地に、私は二度と足を踏み入れることを致しません。右誓約します」といった趣意のことが書かれていた。署名をさせられたのは、私以外にもいたが、少数者(七名位はいたような気がする)に過ぎなかったことから見て、やはり私は米軍のブラック・リストに載っていたことを感知させられた。「頼まれたって、こんな所に二度と来るものか」とつぶやきながら、私は漢字で自分の名前を書いた。
二
復員船は、マニラ湾の中央付近に停泊していた。接岸を許さないのが米軍の方針のようであった。われわれは上陸用舟艇に分乗してそれに近付き、縄梯子を伝って乗船した。
私の順番がきて、麻縄の梯子に手をかけると、上から「ゴクロウサン」という声が降ってきた。白いセーラー服を着た日本人が、下をのぞいていた。その声を聞いた途端、私の目に涙が湧いた。三年間一度も流したことのなかった涙がどっと湧き、溢れ出した。「娑婆の声だ。この上にのぼれば自由だ」と思うと、涙がとめどなく流れ条(すじ)になって落ちた。
武装解除のところで、私は「煉獄の門」は、二千三百二十メートルの山上にあったことを書いたが、「自由の門」は、海抜十メートルのマニラ湾のまん中にあったわけだ。
米軍は、復員船の乗り込みに際しても、将校と下士官・兵との間に差をつけた。将校の乗船時の模様を聞くと、大きなブイが海上
に放出され、そこから舷側に梯子が掛けられ、その上を歩いて乗船したということだ。
復員用リバティ船は、十日ほどかけて名古屋港に着いた。名古屋は大きな地震に見舞われた後らしく、瓦礫が山をなしていた。そこで三日ほど足止めされ、満員列車に立ち通しで乗って山形の自宅に着いたのは、昭和二十一年十一月二十九日の夕刻であった。入営のため自宅を出たのは、十八年十一月三十日であったから、かっきり満三年の軍隊生活であった。
三
比島の復員は、昭和二十一年の暮れまでにはほぼ完了したと思われるが、その後あの捕虜墓地がどうなっか、全く情報が得られないまま年月が経過した。復員から二十六年経って、政府派遣遺骨収集隊員としてその地に立ち、一面の砂糖黍畑に変貌している様を実見した時も、墓地の処分がいつどのように行われたのか見当がつかなかった。
それについての手がかりになる資料が入手できたのは、近年になってからである。すなわち、平成五年に大分の佐藤喜徳氏から送られてきた手紙とチラシがそれであるが、双方とも貴重な資料になるので紹介したい。佐藤氏も下士官のPWであったが、優遇キャンプに入ったらしく、虐待死の事実は初耳であったようだ。
[佐藤喜徳氏の手紙]
次に今回のご書面でうかがいました「白い墓標」のことですが、初耳です。
守屋氏の著作は全部を検討したことがあります。墓地の写真はコピー掲載と異なる写真を「ルソン」第2号に掲載しました。この墓に関係した当人の提供のものです。この号にはロスパニオス刑場の建設に従事した会友の手記ものせました。しかし、当時、仰せのようなことは聞きませんでした。守屋氏たちはその著作にありますように、一七四米兵站病院の会合を日米双方で開いてきました。米軍病院の勤務者はまだ現存していますので追求してみましょう。
しかし、軽々に世上に出すことではありませんので、各方面を探査いたします。資料のご提供をお願いします。(中略)
仰せの墓地は昭和25年1月10日に米軍から佐世保に送還され13日に火葬しました。その数は四、八二三体。収容箱五四九箱。ボゴ丸は記録も明確に残り、火葬作業員の平井敬一氏ほかも証言が残っています。これには読売はじめ新聞社が関係しています。このとき、作家の江崎誠致氏(死去)はじめ中富丘邦(サロンパス社長、現存)らが座談会をしましたが、米軍による虐待死は一言もありません。「二万人」という数の根拠も再吟味してみましょう。いずれにしても手をつけてみます。
「ルソン」誌は別口で「マニラの惨劇」として、米軍の対日、日本軍の対比虐殺はとりあげて特集します。間にあえば、そのなかに入ります。ご協力をお願いします。私方の取材、検証は90%以上の確度を得たものを公表してまいりました。今後、かなりの努力を要すると感じています。(後略)
(平成五年)五月廿日
[チラシの文面] 「戦後なき遺体」ご案内
(前略)昭和24年の冬のことです。長崎県佐世保市に、太平洋戦争で亡くなられた方四八○○余名のご遺体ご遺骨が、帰国されていたことがわが社の調査で判明しました。
新聞やテレビ等にも、何回も報道していただきましたが、わが社はこの二年間徹底調査をしてまいりました。
なぜ、この米軍による戦後処理の国家的大事業としての、遺体遺骨返還の事実が知らされていないのか、あるいは忘れられているのか。この様な中で、ごく一部を除いて、大多数のご遺族の手にご遺骨が届いてないという事態も判明しました。24年に届けられた遺体や遺骸が五○○○体もあればご遺族や戦友がこの日本に必ずいらっしゃるはずです。
テレビのNHKとは、この問題で共同取材をし、すでに第三弾を放映しております。
(後略)
(昭和五十九年 リアルマガジン社)
佐世保の釜墓地
一
平成五年に、大分の佐藤喜徳氏から手紙とチラシを貰った時、私はその中に捕虜墓地の謎を解く鍵が隠されていると思った。これで答えが出せると思った。
いや、既に答えがでているのではないかと思った。
それでも尚かつ私は、その答えを出す当事者になろうとしなかった。俺はあくまで証人であり、判事は第三者に委ねるべきだと思った。証人と判事は兼ねるべきでなく、判事役の適任者に、事実を知らせればよいと思った。そして作家の高木俊朗氏に長文の手紙を書いた。又、佐藤喜徳氏にも改めて手紙を書いた。雑誌「集録『ルソン』」に取り上げて特集してもらいたいと思ったからであった。
しかし「集録『ルソン』」は終刊になり、高木氏からの手紙も来なくなった。これでは自分でやるしかない、人頼みは止めようと思ったのは、終戦五十年を迎えた時からであった。
半世紀を過ぎればどんな非道な犯罪も時効になる。だから、時効になった人間を責めるのは止めよう。ただ実際にあったことは歴史的事実として語っておかなければならない。米軍をモモタロウ、日本軍をオニとする単純図式の戦記類は訂正しておかなければならない。
そして書き初めたのが「お前が証人だ」であり、「続・お前が証人だ」であった。カンルバン捕虜墓地の霊達との約束は、証人になることであったが、検事も判事もいない裁判では致し方がない。俺一人でやってみようと決心したわけであった。
二
ナース達だけでなく、下士官・兵達も当時を語りたがらない。その理由は何かと言えば、次のようなことなのだ。
日本軍の言うことを聞いてそのまま戦争がつづいていたら、俺もきっとルソン島の土になっただろう。米軍が勝ったお蔭で俺は生きている。だから米軍は命の恩人だ。
貴様はいま、米軍の悪口を聞き出そうとしているようだが、命の恩人の悪口をべらべら話すわけにはいかない。それより演芸会など、楽しかった時の事を話そうではないか、
と、話題を逸らしてしまう。
だから、証拠集めも充分に出来ないまま、この文を書いてきた。自分の体験だけを頼りに話を進めて
きた。完全を期そうとすれば、日が暮れてしまう。生還した戦友達もつぎつぎと、あの世へ去って行く。今書いておかなければ、二万の霊達との約束が反故になってしまう。書き初めの頃「今頃になって、なんで戦争の話だ」と批判を受けたが、書き続けてきた理由はそこにあった。
三
だが暗い話は終わりにしなければならない。最近入手した『慟哭の釜墓地』(釜墓地護持会)、『四八二○柱の戦没者が眠る釜墓地』会編、写真集)の二冊を頼りに、要点のみを列記して結論に代えることにする。とは言っても証人の私が、急に判事役に早替わりしての結論であるから、若干の誤認や判断ミスは避けられないかもしれない。
一、カンルバン捕虜墓地の発掘は、昭和二十三年秋頃に行われた。従って埋葬後三年を過ぎており、土葬の遺体ももちろん白骨化していた。
一、火葬の遺骨は風化が進み、埋葬時の何分の一かに減量していた。そしてPW墓地の場合、火葬が多かったことは前記の通りである。
一、米軍が佐世保市に引き渡した名簿には、「遺体四五一五柱、遺骨三○七柱、計四八二二柱」とあったとある。これはPW墓地の分を「遺体」、ニューギニアの分を「遺骨」と称して区別したものとみられる。そして「遺骨」
については、戦死の日時、場所、部隊名まで記してあるのに、「遺体」についてはローマ字の氏名だけで、何も記してなかった。虚偽の名簿である可能性が高い。
一、前記の通りPW墓地の埋葬者は二万柱であった。それにニューギニアの遺骨三○七柱がプラスされた計二万三百七柱の遺骨がぼごだ丸によって運ばれてきて佐世保市に引き渡されたものと推定される。
一、それを四分の一以下に減じた数にして引き渡したのは、事実が曝露されて国際問題化されるのを避けたマッカーサーの策略によるものであった。
一、引き渡し先を、日本政府でもなく長崎でもなく、片田舎の佐世保にしたのも、計算されたマッカーサーの悪知恵によるものであった。佐世保は、原爆被災地長崎に隣接していて、目を逸らさせる恰好な隠し場所であった。
一、(マッカーサー批判の、この条は割愛する。今なお彼を人道主義者で、神様に近い人だと思っっ中大雪の日もあり、二月十三日まで約一カ月かかったと記録に残されております(釜墓地写真集)
とあるように、復員援護局の仕事として焼骨・埋葬を行ったものと見られる。
しかしその後は放置されたままで、個人の篤行委せが十年間つづいた。昭和三十四年に「護国霊碑」が
建立されたが、個人の僧三人の托鉢によるものであった。
現在は、社団法人の「戦没者釜墓地護持会」(昭和57年6月18日結成)が出来て、年々慰霊祭を開催している由であるが、国も県も無関与の状態が続いている。それでよいのかと思わざるを得ない。
〈補記〉ぼごだ丸による遺骨の返還時には最低限佐世保市が関与していたものと思って、右のように書いたが、佐世保市も又、全く関与していなかったことが後日分かった。その事は次項に記す。
釜墓地参詣
平成十一年九月十一日、念願の釜墓地参詣が実現した。ハウステンボスのツアーに参加しての旅で、大層忙しかったが、それでも一時間ほど参詣に費やすことができた。妻と歌友の山鹿菊夫氏が一緒であった。私たちは、
怨親
世界全国戦争犠牲者霊
六千五百餘柱護国霊墓
平等
と刻まれた墓標の前に、燈明と線香のほかに、米と酒を供えて、参拝した。
その時、ふと塩を持ってくるのを忘れたことに気付いた。タバコは私のポケットの中に入っていたのに、それを供えることも忘れてしまったことに、墓地を離れてから気付いた。PWにとって食べ物の次に欲しいものがタバコであった。人によっては食べ物以上に欲しいのがタバコであった。なのにそれを供える事をうっかり忘れてしまったのであった。
墓碑に参拜した後、宝物館の如比堂などを見、釜墓地記念館に招ぜられた。そこで「釜墓地名簿」と、その写しを見せてもらった。それから釜墓地護持会副会長の山田一氏より、遺骨返還時から今日に至るまでの経緯を、大づかみに語っていただいた。
そして確認できた事は、遺骨の返還は、日本政府でもなく、長崎県でもなく、佐世保市でもなかったことであった。従って釜墓地は、出発当初から、日本政府、長崎県、佐世保市の何れからも援助を一切受けずに来たことであった。かくて前項に記した私の推定に修正を要することに気付かされたのであった。
日本の戦後はまだ終わっていないし、片付いてもいない。その証拠が、占領時代そのままの在り方を呈しているハウステンボスに隣接する釜墓地であると言ってよいようだ。
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