芭蕉の大山越え
芭蕉が、堺田の封人の家に泊ったのは、元禄二年五月十五日と十六日であった。そして大山越えと言われる山刀伐(なたぎり)峠越えをしたのは翌十七日であった。そのことは曾良の随行日記によって知ることができる。そして十七日の昼過ぎには、尾花沢の清風宅に着いていることも、同日記に明記されている。
ところが「おくのほそ道」には、
大山(たいざん)を登って目すでに暮れければ、
封人の家を見かけて宿りを求む。
三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿する枕もと
とあって、堺田に三泊したことになっている。これは明らかに「おくのほそ道」の虚構の一つであるといってよいであろう。二泊しかしていないのに、三泊したことになっているからである。
そしてそのことから、このあたりの文には、他にも虚構があるのではないかという疑いを抱かせることになった。山中に盗賊が出るようなことを書いてあるが、芭蕉の作り話ではなかったのか。
また、
高山森々として一鳥声開かず 木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。
といった文にも、かなりな誇張があるのではないか、といった疑いである。現在の山刀伐峠を探訪される人々にあっては、そういう疑念が起きても、仕方のないほど山は開けてしまった。
しかし私の子ども時代の山刀伐峠は違っていた。峠の北側には鬱蒼と山毛欅(ぶな)の巨木が生い茂っていた。その枝は両側から延びて登山路の上空を塞いでいた。「夜行くがごとし」という表現がそのままあてはまるような坂道であった。そしてすこし西側に背名坂(せなざか)峠があり、勾配はこちらの方がきつかったが、山毛欅の数は少なかった。だから「高山森々として一鳥声開かず」といった気配はなかった。
背名坂峠の北陰の杉ノ入という所に生まれた私は、両方の峠を何度も歩いて越した。母が旧宮沢村の出であったことと、宮沢の関谷に姉が嫁いでいたためである。距離的には背名坂を越して岩谷沢に出た方が早かったが、急坂なので荷物のある時などは、山刀伐を越して市野々に出るコースを取ることが多かった。そして山刀伐を越す際には、母から「昔は、ここに山賊がいて、通る人の身ぐるみを剥ぎ取ったそうだ」という話を聞かされた。母は無学で、芭蕉も俳譜も知らなかったが、子どもの私に再々山賊の話を聞かせた。お前はこんな山路を登りたくもないだろうが、そういう気味悪い峠なので、連れが要るのだということを、私に納得させるためであった。 長じて私は「おくのほそ道」の文に接し、実にうまく峠の北側のありさまを表現しているのに驚いた。しかし南斜面を描写したと見られる
「雲端(うんたん)につちふる心地して、篠の中踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して」という文は、私の子ども時代の印象とは違う。緩勾配の南斜面は、萱刈り場にするため宮沢の人々によって早くから伐り拓かれてきたためかもしれない。
(「エリヤ山形」昭63・12)
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