霊山寺の食堂跡と鐘楼跡 |
進藤氏の手紙には、礎石問の距離や敷石帯の幅などについて何も書いてなかった。そして整地の際、礎石群はすべて片づけられてしまったものと私は思いこんでいた。従って規模等の復元は、今となっては不可能だろうと思っていたが、そうでないことを増田氏から指摘されたわけであった。 |
羽州村山郡鳴澤山常善寺ノ元由ヲタ |
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とあった、その食堂(じきどう)の跡である。 |
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一方、私は ”ログ・ハウス 三百坊” というペソショソの建っている位置を、鐘楼跡ではなかったかと思うようになった。ペソショソは、三年前に整地し二年前に開業した由だが、整地に当って移しい数の巨石群が出てきた。高い建物を建てる場合、礎石の下にもたくさんの石をつめこむそうだが(増田氏談)、その高い建物は鐘楼ではなかったのか。出土範囲が狭いだけに、その感を強くしたわけであった。 |
それにその側から、鎌倉時代と推定されている丸瓦が出土していることも、鐘楼跡と見られる一証になると思った。多雪地帯で雪下ろしを必要とする大きい屋根に、瓦は向かない。雪下ろしの際に損傷してしまうからである。従って雪下ろしをしないで済む狭い屋根にだけ、瓦が用いられる。(山形市で瓦屋根がはやらないのは、そのためである。)そしてその瓦とは、山大博物館に収蔵され、その「考古学資料日録U」に、 (資料提供−進藤茂輔氏、協力者−北村優季氏、神保藤吉雄氏) |