岳人・チャランポランスキー
のアラスカ話


2003/04/02

今から25年前の1978年(昭和53年)、「岩手大学アラスカ登山隊’78」というのがあった。

岩手大学山岳部OBで結成された6人の登山隊で、アラスカ州Mt.ドラムに日本人として初登頂してきた。

私だけ山岳部OBではないのだが、大学時代から参加メンバーとは顔見知りで山行も共にしたこともあり特別参加させて頂いた。

アラスカの話はまず’77年の初めに出た。来年の夏頃、お盆休みに掛ければ二週間位は休暇が取れるのではないかと。全員社会人のパーティーとなるからには、休暇を合わせる事が第一の課題になってくる。八月下旬の半月と登山期間を決め、それから楽しめそうな山を探しに係った。余裕を見て十日で終了できるところで探して、アンカレッジより東北東にあるランゲル山群のMt.ドラムに決まった。

そこは標高こそ3600m程だが、高緯度・独立峰で周囲はツンドラ地帯・氷河もあるし、極地登山の雰囲気が十分楽しめた。

'78年には、日本から三つの登山隊がMt.ドラムに向い、登頂できたのは我等だけであった。  (日本からの登山者としては初登頂ということで、『岩と雪』に紹介された)
 登山は一週間ほどで終了し、後はレンタカーでアラスカ中を見て回った。

 

印象深いエピソードをいくつか・・・

1.為替
2.成田管制塔
3.成田両替
4.道路標識
5.ピストル
6.ランチ
7.パイロット
8.バーにて
9.デナリ国立公園

10.
モーテル

 

1.為替

円ドルの為替レートは今では信じられない位の水準であった。’77年末に予算を立てる段階でレートは1ドル220円であったが、出発時の’788月は1ドル180円になっていた。

激動の時期であった。お陰で滞在費は大幅に浮くことになったのだが。

因みに個人費用は40万円ほどであった。

 

2.成田管制塔

成田国際空港は’78年春開港した。しかし激しい開港反対運動を押し切っての見切り発車的な開港で、その裏には不穏な動きが多くあった。案の定、五月に過激派により管制塔が破壊された。我等の出発予定の三ヶ月前のことである。後に大変な迷惑を被ることになった。つまり搭乗者の荷物チェックが厳しくなったのである。登山の荷物は非常に多い。荷造りも大変なものだ。コンパクトに荷造りした物をチェックの際ほじくり帰され調べられた。彼らは調べることだけが仕事で、それが終われば荷造りの手伝いはしてくれない。「モトニモドシテクレー!」

 

3.成田両替

成田の両替所で、一人ひとり十万円ずつ米ドルに両替した。その窓口はかなり混雑しており、係りの女性も慌しげに対応していた。六人すべて両替終わり窓口から離れてから、一人が『ドルは貰ったけど俺の十万円は受け取らなかったぞ!』とニコニコしながら言い出した。

誰かが『ナンダオイ幸先いいな!それはお祝いだよ!皆で山分けしよう!』異を唱える者は誰もいなかった。

 

4.道路標識

アラスカの田舎道の道路標識は酷い。都市部から郊外に入り始めると道路標識に所々穴の開いているものが見受けられるようになる。さらに田舎道へ行くと穴の数がどんどん増えていく。車の数が少ない道の標識などはもう崩れ落ちている。

後で地元の人に聞いた話なのだが、ハンターが助手席からライフルで標識を打ち抜いて遊んでいるのだそうだ。なるほど左カーブの右側にある標識が特に酷いのはそういうことだったのか。それにしても恐ろしいアメリカ銃社会だ。

 

5.ピストル

帰国前日、キムさん*に郊外へ連れていいってもらい一人五発ずつ彼のピストルを撃たせてもらった。ミニマグナムというものだそうだ。20m位離れたところにコーラの缶を置きそれをターゲットにした。自然体に立ち両腕で構え、狙いを定めトリガーを引くが当たらない。ピストルの音は意外とチャチなパンパンという玩具の様な音だった。結局誰も一発も当たらなかった。

「トリガーを引く時力を入れてはダメだ、銃が動く。照準を定める時呼吸などしたらダメだ、体が動く」とキムさんは言う。

呼吸を止めてみても身体は動く。心臓の鼓動で動くのだ。

「心臓は止められない、しかし狙っていれば照準が標的を通過する一瞬があるだろう、その一瞬にトリガーを軽く引けばいいのだ」

そうは言っても出来るものではない。ゴルゴ13の凄さが改めて解った。

 

*日系二世、アンカレッジ中心部で毛皮商店を経営。何故かはよく判らなかったが日本からの登山者の多くはこの方のお世話になるようだった。毛皮屋の裏に倉庫がありそこに何日か滞在させていただいた。倉庫の壁には多くの日本人登山パーティーの写真が貼ってあった。毛皮店内には植村直己さんの写真があった。

 

6.ランチ

これも帰国前日、キムさんの友人宅でランチに招待された。

テーブルには大きな皿にサンドイッチが数十個用意されている。又各自の前には大きなスープ皿が置いてあった。皆はどんな美味しいスープが飲めるのだろうと楽しみだった。やがて奥さんが大きななべをワゴンで運んできて『サッポロイチバンです』

皆愕然とした。我等は山でインスタントラーメンを食い飽きていたから。インスタントラーメンはアメリカではスープなのか〜。きっと彼女は我々日本人のために気を使ってくれたのだろう。

そのお宅を出てから、サッポロイチバンに如何に落胆の色を見せないようにしたか皆で苦労話をし合った。

 

7.パイロット

アラスカにはパイロット免許をもっている人は石を投げれば当たるほどいる。その中でも氷河や山の麓の砂利の滑走路などに離着陸出来る高い技術のあるパイロットをブッシュパイロットという。我等もMt.ドラムに一番近い町でブッシュパイロットと五人乗りセスナをチャーターし、麓までの50kmのツンドラ地帯を二人と荷物で3往復してもらった。

ツンドラ地帯は野生動物の楽園だ。パイロットは口笛を吹きながらキョロキョロ左右を見ながら操縦している。突然「カリブー!!」と叫びながら飛行機は斜め下へ急降下!これはチャーターの際、契約にないパイロットの特別サービスなのだった。自然のままの野生動物を見せてあげたいという。次は「ベア!」『ヤメテクレ〜!真っ直ぐ目的地に行くベア』

 

8.バーにて

ある町のバーで日本では見かけない面白い情景を見かけた。一人ひとり自分の手元に小銭を置いて飲んでいる。一杯注文するたびにバーテンに代金のコインを渡す。味気ないようだが合理的でもある。飲兵衛にとっては非常に良いシステムだ。自分の飲む分量を最初に決めることが出来るのだから。郷に入りては郷に従え、我等も真似して数ドルをコインに両替しカウンターに陣取って飲み始めた。しかしどんなに良いシステムでも根っからの酒好きには効果はなかった。コインが無くなるとすぐに又両替するから。

 

9.デナリ国立公園

アラスカ州の真ん中にあるデナリ国立公園。北米最高峰マッキンリーのある地域である。

24,000というから東北の二つの県位の広さはある。そこは徹底した自然保護の方針から一般車両は入れない。観光客は限られたコースをシャトルバスで移動するだけだ。

公園の入口に何十台というバスが並んでおり、100qや200qのバス旅行を無料で国のサービスでやっている。その位の距離だから短くても半日コースとなる。時刻は出発時刻が決まっているだけで到着時刻は特にない。何故なら、途中の道路に野生動物が現れるとそれが自然に動くまでバスは止まったままだからだ。

我等はマッキンリーの麓へ行く半日コースのバスへ乗り込んだ。車内がほぼ満員になった頃、オーバーオールのジーパンで野球帽を斜めに被りガムを噛みながらオネエチャンが一人乗り込んできた。国立公園職員のバス運転手であった。一通り説明してからスタート。

野生動物の近くを通ると車内には数種類の言語で感嘆の声が飛び交っていた。

 

10.モーテル

モーテルとは本来モーターカーで旅行する人が宿泊するホテルのことをいう。アラスカはモーテルが実に多い。需要も多いのだろう。空室を探すのが楽ではなかった。特に夏はアメリカ本土からのキャンピングカーでの旅行者が多いようだった。オートキャンプ場も各地に大規模なものがあったが、モーテルの前にもキャンピングカーはいっぱい止まっていた。老夫婦がバスのようなキャンピングカーで動き回っているのが結構目に付いた。

我等はスーパーで食糧を買い込みモーテルで自炊しながら各地を回った。

 

11.釣り

釣り道具一式とライセンス登録をして一日釣りを楽しんだ。ライセンスは一人一日でいくらとなっているが、一人登録すれば皆交代でやればいいのだ。ライセンス票には人を識別する項目として瞳の色を記入する欄があった。アラスカは世界各地から太公望がやって来るところなんだなと改めて感じた。

釣具屋の親父に聞いた川で釣りをしていると、近くの建築現場の労務者が冷やかしにやって来た。ズボンの裾を捲って川に入ろうとしたら「for swimming?」『yes I like swimming

「ウォホホホ…」ポパイの敵ブルートのような奴だった。



番外    変酋長談 

  アンカレジ ごくみの亭主は ジャンアレジ 
  マッキンリー お前は来るな 荒らすから