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車でこの道を登って行ったら図の東部大空濠あたりが畑になっていておばちゃんが作業していた停める場所はなく道路に路上駐車
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戦士の墓なのか@
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戦士の墓なのかA
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山形の杯山くらいは歩かないといけない
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南に白鷹山
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館跡
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北東に山形市
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江口さんたちは最上義光のいる霞ヶ城を見守っていたのだろう
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館跡
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江口さんの石碑
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400年記念も4年経過
次にクローズアップされるのは2100年になるのか
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山頂の広さからして館は小さいものだったにちがいない
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途中から白鷹山
直江軍の進軍が見えたのだろうか
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登り口を上から
左が長松寺、江口さんの墓があるようである
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館山@
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館山A
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館山B
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今を去ること四百四年慶長五年九月十三日、石田三成の盟友上杉藩家老直江兼続は色部修理を先手として最上領畑谷城へ攻めかかる
最上義光から帰還を命じられた城将江口五兵衛(道連)はこれを聞き入れず篭城、激戦の末に数百名の兵と共に玉砕
兼続はさらに援軍に駆けつけた最上勢を粉砕、引き続き山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を抜き、義光の本城山形城以外は、残すところ長谷堂城のみとなった
九月十五日関ヶ原の合戦西軍の敗報が会津に届いたのが九月二十九日、長谷堂城包囲中の兼続は十月一日から全軍の撤退を開始。追撃する最上軍と死闘を演じながら十月四日米沢に帰還
前田慶次の活躍が世に知られる「長谷堂城の戦い」は戦死者が両軍合わせて二千人を超える大激戦なのであった
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