山形県朝日町三中・若宮寺


2017/07/17(月)

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『山形・シャンティ!わたしのみはらし5』という催事に、家来が出演するとのことで、朝日町三中の若宮寺に行きました。 家来から紹介してもらって、住職と、ミュージシャン若住職と、話してきました。 能中・椹平(くぬぎだいら)の棚田、三中分校などの名所旧跡やら、この近所の私の知人について、話させていただきました。 リハーサル中の家来一派であります。ミュージシャンで山辺でミネタという姓で検索などすると『ひよっこ』のおじさん、峯田和伸が出てくるわけですが、その有名人にチラッと混じって、右端のギタリストも登場します
住職に「故佐竹元山形東高校長が、ここのもうちょっと北の方の五百川地区にある佐竹家住宅の親戚になるけど、ご存知ですか?」と聞いたところ
「良く知っています。若いのに残念でした」とのことでした また、30年位前、釣りの仲間だった知人が、お寺の4、5軒隣の方で、「囲炉裏を囲んだ酒飲みしましょう」となって、その家で痛飲して、翌日、朝日の渓谷へ岩魚釣りに行ったのでした ここからは『山形県の町並みと歴史建築 』というサイトに書かれた若宮寺について引用させていただきます
若宮寺(朝日町)概要: 若宮寺の創建は正平年間(1346〜1370)、当時の領主である五百川氏が弘法大師の教えを篤く信仰し、 西船渡に大日如来像を本尊として勧請し一宇を設けたのが始まりと伝えられています。 その後は八ツ沼城主で周辺を支配した原甲斐守の菩提寺として庇護されましたが 慶長5年(1600)の関が原の戦いの際に上杉家の侵攻の兵火により焼失し一時衰微しました。
慶長17年(1612)、山形城の城主最上義光4男山野辺義忠が尊孝法印を召還し現在に境内を移して再興しています。 境内にある鐘楼は20世盛括法印が再建したもので、入母屋、銅板葺、総ケヤキ造り、 棟梁として左沢菅野辰吉が天保14年(1843)から嘉永3年(1850)までの7年間という歳月をかけて作り上げました。 特に江戸時代後期の細かな彫刻や建物の工法など見られ、朝日町における当時の建築様式を伝えるものとして
昭和45年(1970)に朝日町指定有形文化財に指定されています。 又、若宮寺の延命地蔵は山形百八地蔵尊霊場の第44番となっています。 以上引用終了。向こうの集落は宮宿になり、あっちから、このお寺はよく見えます。若宮寺レポート了