寒河江戦役(桑名藩の戊辰戦争)
2019/06/22〜
1868年、戊辰戦争の最終局面において、われらが庄内藩と、桑名藩、松平定敬の家来たち400人が、薩摩を中心にした新政府軍2000人と、戦死者40〜50人くらいを出す市街戦を、繰り広げた場所が、寒河江にあったことを、某歴史大好き(特に庄内)Kさんからお聞きし、寒河江臥龍ライオンズクラブの資料をいただいて、各場所を撮影してみました。
下は寒河江市の駅前から寒河江小学校、長岡山を俯瞰した地図です。黄色文字のホットスポットをクリックすると、そのあたりの写真に飛びます。
中山町「下川の渡し場」
『九月二十日払暁、山形を発した薩軍は長崎に達し最上川を渡河』
1868年(明治元年)9月20日には、新政府軍を率いる西郷隆盛
桑名隊は町の中心本願寺前から道場小路にかけて朝食の用意をしており、庄内兵は少し早めの朝食中
七時過ぎ、寒河江の南街はずれで突然銃声
道場小路@
道場小路A
道場小路と十日市場通りが、交差する場所に、大日如来
ヒストリーロードの道しるべ 『道場小路』と『十日市場通り』が書かれている
【桑名隊は兵を集め街はずれの新宿まで進み、沼川沿いに陣を敷く】
『新宿の沼川橋を切り落とし、木戸を閉めて戦う』
【銃撃戦、白兵戦、木戸を破られ、新政府軍、町に火を掛ける】
沼川橋たもとの高林寺
十日市場通りを東に行くとT字路になって、その道しるべ
『十日市場通り』『新宿通り』 と記載
『十日市場』も『新宿』も、現在の地図にはありませんが、60過ぎの人には、なじみのある名称だそうです。
『十日市場通り』
『沼川橋』方面
『新宿通り』北方面
『南町むつみ広場』なのです
お堂がありますが、江戸時代からあったのか、戦役の時あったのか、なんなのか、調査不足で不明
『新宿通り』北方面
『大運寺』
寒河江郵便局の向かい側の公園
『柴橋代官所跡』は何回も見ているが『寒河江代官所跡』は、見たことが無い。ここにあるらしい
草が生い茂って、どこにあるのかわからない
そのモニュメントはひっそりと緑の中にたたずんでいた
『六供町』は、現在の西寒河江駅あたり
【長岡山はこんもり繁った赤松に覆われ、山頂北側には八幡神社】
【中央には造築中の代官所があった】
【先着していた庄内隊と態勢を立て直し守備陣を敷く。これより長岡山の激戦が開始される】
【桑名隊は庄内隊と力を合わせて、まず南の米沢軍を迎え撃って引き退かせ、次同様に薩摩軍を撃つ。しかし、敵は新手を次々と繰り出した】
【桑名隊は長岡山を駈け下って後退に移るが四方に敵あり想像を絶する混戦であった】
チェリーランドの南側『二の堰親水公園』から、長岡山。独立峰(丘)なのに、桑名兵は、葉山の前衛の山と思っていたらしい
慈恩寺方面の丘は、田代、幸生へと葉山、月山への道になるので、はじめから、白岩方面まで走れば良かったのに
『八鍬を経て寒河江川をはさみ2時間ほど陣ヶ峯で戦う』と資料にある『八鍬』の集落
二の堰の開始地点。むこうに見えるのは醍醐小学校
八鍬の二の堰の水門
『桑名軍と左沢から合流した連合軍、高いところに大砲を据え付け、橋に集まる新政府軍を狙い打ち』
『新政府軍、下流道生付近から渡河。慈恩寺に放火16軒焼失、背面を突く』
『桑名軍、集落に放火11軒焼失、肘折越えで庄内に落ちる』
【午後五時過ぎ、白岩より北へ銅山越の悪路を引き上げる】
『臥龍橋』から南方面
『新政府軍8名戦死』資料には新政府軍の死者しか載っていないので、庄内、桑名軍の勝利のようです
◆臥龍橋(寒河江)
臥龍橋の歴史の始まりは江戸初期の一六二二(元和八)年。白岩領主酒井長門守が今より二百メートルほど上流の赭熊渕(しゃぐまぶち)という所に架橋
工事を監督した柴橋代官所手代の相沢大助は竜の背骨のような姿だと「龍脊(せき)橋」と称した
『陣ケ峯の戦い』のモニュメント。昭和60年代に寒河江市役所で、方々に作成したようだが、解説の入った案内板なども欲しいです
坂の道路の工事の記念碑のほうが、殿様で、古戦場碑は家来のようです
陣ケ峯の町並み@
古いものは、これくらいかな。あと、昔茅葺でトタンで覆った大きいお屋敷もありました
陣ケ峯の町並みA
陣ケ峯の町並みB
陣ケ峯の町並みC
桑名軍戦死者の埋葬墓地『陽春院』
『桑名軍死者の死骸はそのまま何日か放置、陽春院の大観和尚が引き取って地蔵尊裏に埋葬(19名・他藩士6名)』
『明治8年(1875)松平定敬ほか2.4名、7回忌に墓碑建立』
雷神隊、白水良次郎は唐津藩の藩士なので、別のお墓
「谷三十郎」がいるが、新撰組にも同姓同名の隊士
というのは事実ではなく、命の危険を察して、新撰組から京都所司代に、潜り込んで、薩長軍と戦い続け、寒河江の長岡山で戦死したのであった・・・
『大正16年(1917)、50回忌に旧藩士高木貞作が陽春院墓参』
『(昭和36年道路開削の時移転埋葬)人骨確認』
『陽春院「桑名藩士埋葬地」昭和39年4月22日、寒河江市指定史跡となる』
『専修大学設立者駒井重格(しげただ)も寒河江で戦った』
谷三十郎に戻って、京都所司代に勤務していたようなので、新撰組と協力関係
道路の向かい側は、期せずして、荘内銀行寒河江支店。行員は、庄内藩といっしょに戦った桑名兵に、合掌
今でも、天童の古老に営業に行くと「なんで、天童を焼け野原にしたんだ!!」と庄内人を、怒る方もいらっしゃるとか、いらっしゃらないとか
以上『庄内藩の戊辰戦争をもっとメージャーにする会』レポート完