山形市 三島神社


2019/11/17

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写真向かって左に山形県立図書館(遊学館)があります。そして、その間の道路を直進すると山形東高です。 遊学館は最近までずっと山形県知事官舎でした。したがって、初代県令、三島通庸も住んでいて、そのため三島神社は三島通庸を祀ったものだと思っている人が、少ないか多いかはさておき、まあいます。 三島神社の創建は不詳ですが、慶長4年(1596)に最上義光が娘三島神社の菩提を弔う為、天童に境内を構えていた専称寺を山形城の城下に移した際、鎮守社「三島稲荷明神」として勧請されたのが始まりとされます。 明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治4年(1871)に専称寺から分離され現在地に遷座し三島稲荷神社に改称しました。
明治9年(1876)、山形県令として赴任してきた三島通庸は、県庁近くに自分と同じ苗字である三島を掲げる当社に痛く心を寄せ、明治12年(1879)に社殿を造営し、 三嶋大社(静岡県三島市)の分霊を勧請して三島神社と社号を改め、今まで鎮座していた稲荷神社を境内社としました。 拝殿は入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、本殿は一間社流造、銅板葺、社殿内部には日清・日露戦争の戦勝祈願の為奉納された絵馬や算額などが掲げられています。 山形人の敵だった薩摩藩士の地と汗の結晶と思うと、三島通庸を称えるというより、憎たらしいと思えてしまうのは、山形人の鏡餅
右手の小さいほうが専称寺から分離され現在地に遷座した三島稲荷神社 以下 山形県HPから三島通庸について引用します。 三島通庸は、1835年(天保6)薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。幕末は精忠組の一員として、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍する。 戊辰戦争後は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興の事業を行うが、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年に東京府参事として新政府に出仕することになる。
東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側の実質責任者として活躍する。これらの経験は、後の山形県令時代の事業を達成するのに大きく役立った。 東京府参事から教部省の教部大丞を経て、明治7年に酒田県令として赴任し、明治9年に初代山形県令となる。