不忘山に墜落したB29 |
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2005年にアップしたサイトですが、それから10年後の2015年あたりから妙に研究者が増えたみたいで、 | 2015年11月にテレビ朝日系列で放送された、東京大空襲の日、なぜ3機のB29は東北へ向かったのか?「蔵王に消えたB29〜墜落の謎70年目の真実〜」【テレメンタリー】 | が放送されたり、本を書く人が出てきたり、まあブームっていうにはマイナーすぎる?題材なので、大もうけした方はいないと思うのですが | この題材を扱った一番古いサイトをさがしたところ、このサイトにたどりついてくれた方がいらっしゃいました。 |
そのサイトは 「宮城蔵王不忘山B29三機連続墜落事故の謎」 |
そのサイトにいろいろ「宮城蔵王不忘山B29三機連続墜落事故の謎」が載っていますので、本編は内容は昔のまま、多少操作性を向上させました。 | 「小学校の時、墜落したB29が四小の体育館に展示され見に行ったんだ」 | 松山二丁目のFさんが話してくれました。筆者は何年か前に安斉徹写真展で見た墜落B29の写真が印象深かったため、おおいに興味を示すと |
「その後その事件にまつわるいろんな話があって、おもしろい本もあったんだけど無くなってしまって探せない」 | そして、Fさんはやまがた散歩1991年No21森山憲治郎氏著になる「あわや県都も」のコピーと1945年の事件の載った新聞のコピーを持ってきてくれたのでした。 | 『いまも硯石から不忘山の登山道には、B29の破損した金属片がちらばっている。』の文書(やまがた散歩より)が昨年から気になりはじめ、 | 1991にちらばっていたなら現在だってあるんだろうと某お医者様から「ありません」などと否定されながらも、 |
硯石からの山登りを密かに狙っていました。 | 五月の山菜、六月のサッカー、竹の子シーズンが終了した七月の連休、朝早く目を覚ましたのを幸いと七ヶ宿に向け出発。 | 黄門様の「長老湖のほうから登ると近いべね」などとんでもない。 | 歩き始めて15分で小ダウン。 |
なにせエコーラインから歩くのと高度差が全然ちがう「二時間半で着くらしい」などとんでもない話に思えてきた二時間弱ころ | 潅木帯の中の空地に一見お墓に見えなくも無い白い四角の花崗岩の石とその前に積まれた雨どいのような錆付いた鉄屑を発見したのでありました。 | 黄門様は不忘山頂からここまで下る体力がないそうである | 碑を向かって右から |
碑を向かって左から | 不忘の碑 | ||
製作の発起人は元白石市議庄司猛太郎氏 ライシャワー元アメリカ大使も協力した | このように上を向いている |
山頂での不忘の碑漫談 登山道の狭くなった場所でフウロ(高山の花)の写真を撮っているとまあ山では若い方に分類される奥様に「花の写真撮ってるんですか」 と質問されました |
「いいえ、花でも山でもあるものはすべて。今日は不忘の碑が目的です」 「え〜不忘の碑、なんで〜」と絶句した様子。そんなに不思議なことなのかなと思いつつ |
「戦後60年の節目の年だから墜落したB29の碑を撮りに来たんです」 多分不忘の碑の由来は知らなかったんだと思うが「飛行機が墜落したんですか」と質問される |
登山者はあまり気にしないで通り過ぎる 中にはバックにして写真撮る人も | 写真撮ったら引き返そうと思っていたが、撮影が休憩になり多少回復 | |
山頂目指してしまう |
「東京大空襲の1945年3月10日、どういうわけかここまで飛んできたB29が墜落し、亡くなった搭乗員の慰霊碑なんですよ」 自分だって10年前くらいにやっと知った知識を、知ったかぶりをして教えると |
「何人亡くなったんですか。どうして墜落したんですか。家の人ここまでお参りに来るの大変でしょうね」 | 「一機あたり12〜13人だと思ったけど、まちがって自分で落ちたんですよ」 |
「えーそんなにたくさん乗ってたんですか。飛行機って1人か2人しか乗ってないと思っていた」 |
二番機の墜落場所 不忘の碑あたりからの稜線と 南屏風からの稜線の間の大若沢上流部に落ちたらしい |
三番機は芝草平の西南ブナ平に落ちた | 地図には横川から天神沢沿いに芝草平までの廃道が載っているが行けないだろうな |
神社 向こうは南屏風から屏風岳 | と、けっこう天然。B29も知らないようであった。三機墜落したことを言うと話がまた長引きそうだったので黙っていたが | 「遺族の方は来てるんでしょうね」慰霊にこだわる人だなと思いつつ | 「遺族は来たのかどうかわからないけど前のライシャワー日本大使が作ったんだから彼は登って来たんじゃあないかな」 |
などと勝手な推測を述べるがライシャワーさんの名前も初耳だった様子 ・・・まあそんなものか・・・ | 墜落日時 | 三番機のみ12人なのはLAIRDという少佐が機長兼操縦士として便乗したからとの記録を見つけました。ほとんどの機長は尉官なのに佐官が特別乗り込んだのにはなにか重要任務があったのでしょうかか | 当時の新聞によると山形側の巡査が舟引山を越え横川を渡りブナ平目指して空沢沿いに捜査に行った記事がありましたが、これは三番機を目指したものと思えます。記事からは当時舟引林道はなかったように感じましたが、 |
考えてみると三月なんだから雪のため道などなくなっていたのでしょう。舟引山分水嶺には多分山形側に水を分けていたんじゃと思えるかなり古い用水路があったのを思い出しました | 前衛の山の巾のあること。右上に長老湖もある | 硯石登山道七合目あたり | 登山口から2時間弱 潅木帯の中の空地 |
慰霊石らしきもの発見 | 雨どいのようであるがブリキではなく重量のある鉄材 | マフラーのようなパイプ 先端は塞がっている 部品はアメリカっぽい | |
なんと4cmくらいのボルト、ナット、ワッシャーセット発見 丸いのは直径3cm位厚さ3mmくらい | 機体の継接ぎ用鉄部品なのでは | 機体ってジュラルミンだと思うんだけど鉄もかなり使っているのか | |
こんなものがあるとは半信半疑でとにかく登ったのであった | また、3/10東京大空襲の2時間前くらいに二機のB29が東京上空に飛来し、なにもせず房総沖に飛び去り、安心した東京都民の上に焼夷弾の雨霰を落とした旨の文章が多くありました。 | 墜落機は房総沖を北上したらしいので「これだっ」と閃いたのでしたが東京空襲は3/10AM0:08開始なのでタイムラグが大きすぎるようです。 | あきらかにユウフン 熊さんがいるんだ |
到着。新兵器持っていたので虫に悩まされなかった(2020では普通だが、当時は新兵器) | 途中の橋から横川上流 | ||
萱平からの林道を通ってこの川の上流に下りたこともあり | 横川の部落からさらに上流に行くとこんなものがあった 『やまびこ吊橋』 | 山形では見たことのない工法の堰堤 | けっこう揺れる |
メイン道路に『つりばし』の案内あり辿ったら着いたのだ | 国道113沿い Fさんは不忘山の下と国道の2つ不忘の碑があるとおっしゃっていたがこれは山頂のの説明だった | ||
山頂での不忘の碑漫談 | |||
参考 | |||
墜落日時 | 乗員数 | 他 | |
一番機 | 1945/03/09PM10ころ | 11 | 爆装なし |
ニ番機 | 1945/03/09PM11:30ころ | 11 | 爆装なし |
三番機 | 1945/03/10AM02:00ころ | 12 | 焼夷弾装着 |
三番機のみ12人なのはLAIRDという少佐が機長兼操縦士として便乗したからとの記録を見つけました。ほとんどの機長は尉官なのに佐官が特別乗り込んだのにはなにか重要任務があったのでしょうかか | |||