しかし、新撰組の土方歳三ように軍の引き締めをちゃんとやらなかったのだろう。来るものは拒まずで集まった兵士の中に今でいうスキンヘッド軍団、ザンギリ隊という一隊も入り込んでいた。天狗党の悲劇はザンギリにより開始される。なんと栃木町で町民とのいざこざを起こし、町民を斬り町に火を掛けてしまったのだ。この暴挙により天狗党の株は暴落し、無法者の印象を世間に与えてしまったのである。
天狗党の栃木町焼き討ちの報を受けた幕府は、天狗党追討の令を発布。水戸藩では、尊壌派と対立する門閥諸生派の市川三左衛門を執政に登用、市川は水戸藩邸の尊壌派を退け、六月十四日、諸生派の兵三百を従えて出陣し、幕府軍と合わせ五千、七月七日下妻に布陣。これに対する天狗勢八百、数を頼みに酒盛りをしていた幕府軍に奇襲をかけて勝利。
水戸城に逃げ帰った市川三左衛門は、城内の尊壌派の一掃を図り、天狗党に好意を寄せる藩士を投獄し、一種のク−デタ−を強行して、藩主とは別に城内の実権を掴んだ。勢いに乗った天狗勢は水戸に迫ったが、待ち構えた諸生派と戦って敗北。
われらが最上の家臣の子孫、71歳の隠居じいさん里見親長は
「わが里見一族、せがれは正式な天狗党員としてご奉公している。わしも隠居の身なれど、ご恩多き徳川斉昭様、山野辺義観の意思を継ぎ尊皇攘夷のさきがけとならなくてはならない」
と決意しボランティア参戦、一戦におよんだが味方の敗北となり落ち延び栗崎村の民家に隠れていたが、諸生党の追手に探知され、切腹して果てたのである。・・と思われる
江戸にいた水戸藩主慶篤は、藩内の乱れを鎮める為、宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に向かわせた。頼徳は中立の立場なはずなのに道中、天狗党員らが加わわっていきその数は三千を越した。頼徳一行が水戸近くにさしかかるころ市川三左衛門よりの使者「一人で参られよ」頼徳「それはないじゃろう」押し問答の結果、両軍は城下の備前堀の近くで対峙。諸生軍から突然の発砲があり、両軍の戦闘が開始された。天狗諸生の争いに巻き込まれる事になってしまった頼徳は那珂湊に布陣、戦闘は膠着。
「こりゃだめじゃわしの力量じゃことを治められん。ご家老、義芸殿に話をしていただこう」
と、助川城主である山野辺義芸に事態沈静を依頼。
「このような事態にわしが出て行っても解決するのは難しい。もうしばし様子を見るわけにはいかんかのう」
この殿様多少優柔不断なとこもあった。そうしているうちに水戸城中の故斉昭夫人、芳春院からの事態収拾の仲立ちの依頼の書状
「かかる藩士同士の戦いを斉昭様はけっして望んではいなかった。この状態を解決できるのはそちしかおらぬ。なんとか双方の話を聞いて水戸藩のとるべき道を開いておくれ」
ここまで頼まれて腰をあげないのは男がすたる。八月二十三日、水戸へ向けて出発。しかし、そうはさせじと青柳で待ち構えていた諸生軍が発砲してきた。と同時に「諸生軍が助川城を攻めようとしている」との伝令からの報。反転して助川城に駆けつけようとしている途中またしても諸生軍の反撃。偶然その辺にいた天狗党、大津彦之丞の部隊が義芸勢に加勢。ようやくのことで助川へ帰城することが出来たのである。
そもそも中立であるべきはずの松平頼徳、山野辺義芸双方共に心情攘夷派である。天狗党とのはからずもの共闘を諸生派が義芸追い落としの材料にしないわけがない。市川三左衛門は、幕府軍総督田沼意尊に告げ口。助川城は天狗党とみなされ幕府軍に包囲されてしまう。「これまでか」義芸は、九月六日、幕府軍に降伏。付き従う家臣二名 「補佐するわれらの責任、義芸様には何の罪も無し」として、その場で自刃したのである。山野辺家はここにおいて家名断絶となるのだが、時の流れは義芸を明治元(1868)年三月に復権させ、藩内の諸生派を一掃させることになる。明治十九(1886)年十二月没、享年55。
義芸の降伏とともに松平頼徳の軍も幕府軍に降伏。この時、前述じいさんのせがれ里見四郎左衛門親賢は天狗党の大将、榊原新左衛門のもとにあり頼徳とともに幕府軍に降伏。古河藩に預けられ、慶應元年四月に切腹となったのであった。享年51。
このように我が山形をルーツとする最上家の明治維新があったのであった
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