水野三郎右衛門元宣


2020/01/01

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山形市民として、今さらながら、山形のご家老様、水野三郎右衛門元宣であります。 庄内藩の無敵物語に隠れた弱小山形藩の、ご家老様で、殿様に代わって実際の政務を執り行っていました。 庄内藩の無敵二番大隊長、酒井吉之丞(玄蕃)と同じ1843年生まれなので戊辰戦争時は25、6歳と若かったのです。 水野三郎右衛門元宣といえば桜町の豊烈神社に銅像があって合祀されており、七日町の長源寺で処刑され、墓もその寺にあるということは、山形市民として知ってはいました。
豊烈神社の銅像です。神社は10年前の2010年の撮影のものです。 2020年2月も、終盤に差し掛かって、まだ更新していないので、そろそろ健在を示さないと、忘れられちゃいます。 明治35年(1902) 水野三郎右衛門元宣の遺徳を偲び銅像建立 昭和18年(1943) 水野三郎右衛門元宣の銅像を戦争完遂の為供出 代わりに昭和21年現在の墜像を建立
2010年は、まだやっていました。あのニコチンが毛細血管を流れる刺激が忘れられません。 しかし、半年以上にわたる禁煙期間中のイライラ感を思い出すと、それが面倒で喫煙は、禁煙後まったくなしです。 庄内藩の戊辰戦争に興味を持って、その中に水野のご家老様もいらっしゃるので、今度はお寺訪問です。 長い間、長源寺通り北を向いて右手のお寺本堂のほうしか、長源寺として知りませんでした。
いつも思っていましたが、普通のお寺はたくさんの墓石が並んでいるのですが、ここにはありません。 実際に三郎右衛門が処刑された終焉の場所はかつての本堂前で、現在は料亭四山楼となっている場所だそうです。
初代山形県知事の三島通庸が、山形市の道路網を整備した時、長源寺を長源寺通りで分断したようです。 三島通庸 は2019年NHK大河ドラマ『いだてん』に出てくる生田斗真演じるオリンピック短距離選手、三島弥彦の親父で、大久保利通の家と縁戚になるので、子孫には麻生太郎副首相など、政界の大物などが多い元薩摩藩士であります。
山形東高のところの三島神社は、三島通庸を祀った神社ではありません。 三島通庸や三島神社のことも、2019年、ある先生の講演を聞いて、多少ノウハウを得たので書こうとしたのですが、なんか創作意欲が鈍って、ほったらかしにしています。 本題の水野三郎右衛門元宣に戻って、戊辰戦争の責任を取ってここで処刑されたのですが、どうして切腹という名誉を与えずに処刑だったのでしょうか? 水野といえば天保の改革の水野忠邦で、それが失敗に終わったのが1843年。その改革の時、薩摩や長州が水野忠邦から、ものすごく苛められていた
水野忠邦の長男、水野忠精が水野三郎右衛門元宣の主君、山形藩主なのだが、天保の改革失敗の後、かなり落ちぶれたが、20年もすると、再度、頭角をあらわして徳川幕府の老中首座などを歴任して1866年まで活躍した。 1866年水野忠精の隠居により家督を相続したのがその長男、水野忠弘。1868戊辰戦争時は、ほとんど京都にいて、山形のことは、家老の水野元宣以下にまかせっぱなしでした そして2020年1月1日雪のない1月のウォーキング、今まで行ったことのない長源寺のお墓の場所に進入します。 ここしか墓所への入り口がないので、檀家や水野三郎右衛門愛好家、鳥居忠政愛好家でない山形市民で、この場所を知っている人は少ないのでは!?
ほれ、誰かが教えてくれなければ、歩いていても気づきません 現在は、墓所の南側が、空き地のようになって、その道路から、お墓が見えそうです。 水野三郎右衛門の家来の山形藩目付兼馬廻差図役、赤星守人武義の墓です。 庄内藩が清川口で薩長と新庄藩から攻められて、逆に天童を攻めて、天童城下を焼け野原にする天童の戦いの明治元年閏4月4日
庄内藩が須川を渡ろうとして、長崎落合口の戦いが起こりました。 飲食店テナントビルの西側に細長く、長源寺の墓地はあります。大きい墓地です。 この、りっぱな墓石が、われらが山形市民の恩人と慕われる水野三郎右衛門元宣の墓なのであります。 水野の家紋、沢瀉(おもだか)の紋。おもだかは池や沼に自生し、夏長い花茎を出して白い花をつけるとのことです。
水野家で山形にお墓があるのは、水野三郎右衛門元宣さんだけで、水野家は1840年代に山形城主になっているので、20数年しか統治はしていなかったのです。 さて、長源寺のお墓群の中でも目に付くのがこれです。なんと『馬見ヶ崎川』の馬見ヶ崎の由来の殿様、鳥居忠政公の墓石なのだそうです。水野家よりも200年以上前のお墓になります。 現在は墓所の南側の、山銀から東への道路のとこの建物が無くなっているので、「あ〜、こんなところにお墓がある」と見えます