山形市 若木楯 |
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2022/11/15 山形市村木沢若木「広福寺」 を作成した時、その西側に『若木楯』という城跡を見つけて、いずれ行ってみようと思ってました | 1438年というと1467年の応仁の乱の30年前で、世の中が騒々しくなるちょっと前 | 新関因幡守吉綱によって築城されたとあるが、「広福寺」 の住職の姓は新関だったし、近所の醤油屋さんも同姓、他にも、多くいらっしゃるようで、このあたりは新関集落みたいです | そして、新関吉綱さんは最上家初代の斯波兼頼の少し後の殿様の家来だったようですが、若木城主として「広福寺」 も建立したと記されています |
霞城(山形城)の写真は言うに及ばず、絵や図面など、ほとんどなくて、霞城公園の整備が、大変難儀しているとは、よく聞きます | 城郭の山頂からは、金魚の町、常明寺の町並みが望まれ、東も西もよく見える場所だったことがわかります | 「広福寺」 の全貌を見渡せます | 話は戻って、霞城の資料不足が示すように、徳川時代の山形の歴代殿様は、さほど歴史や郷土史に興味を示さなかったのだと考えられます |
1600年から1868年までの間に十三の家が藩主になったという回転の速さから、歴史を残す暇もなかったと思えます | 城郭跡の平らな場所は、ほとんどが畑として活用されています | 井戸の跡なのか、なんなのか小さい緑の水溜りもあります | 草を全部取り除いたら、りっぱな石積みが、見れることでしょう |
山形城が見えるのかどうかは、注意してませんでしたが、向かって右のほうの山の後ろ側みたいです。若木楯・・・了 | |||