高瀬

山形市に高瀬という地区名があります。「思い出ポロポロ」などで紅花で有名ですが、平安時代からの伝承が数多く残る歴史の町でもあります。
八幡太郎(源義家)の伝説も八幡神社にはあります

2004/10/31撮影

見瀧寺

しだれ桜で有名とのこと
見瀧寺の高台から
合の原分校・・・・きれいさっぱり 消滅

2002/11/17撮影

高瀬には、休石の八幡神社にちなんで、もう一つの義家伝説が伝えられているが、これもおもしろい。義家が、貞任・宗任と戦い、作戦功なく一時退却してきて、休石に百余日帯在して作戦を立て直した。

その時、現在の八幡社境内に経塚と称する所があった。
そこで義家が、八幡大菩薩を本専として祭事を行ない、

戦勝を祈願し、再び奥州征伐に出発した。そして勝利を得たので、その地に村民が八幡神社を建立した

左 高瀬から見た雁戸

山寺への新しい道でトンネルをくぐると立谷川

2002/06/09撮影  清水峠・高沢の開山スギ 

高沢の登山口から30分くらい歩いた場所

1Hで清水峠

二口方面

仙台神室

高沢の開山スギ

開山スギの説明

2001/08/06撮影

羽州の武衝兄弟(清原家衡、武衝の兄弟)は、なおもって朝廷に伏さなかったので、またまた討手をくだすことになりました。

そして前のいくさの勝利者である頼義公がよかろうということで、命をくだしましたが、

頼義公は”九か年の戦いに疲れました”といって、その嫡子の八幡太郎義家公を、羽州へくだしました。

 官軍はまず、奥州へやってきて、ここで出羽の様子をうかがい、軍兵を三手に分けて、

一卜手は、一万二千余騎を、鎌倉権五郎景政が大将となって、笹谷峠から討って入りました。

もう一卜手は、三浦○(兵か)平大夫為次を大将と決め、銀山口から進発しました。

さらにもう一卜手は、総大将の義家公で太夫光任を軍師として、その勢二万余騎が、

清水峠(今の二口峠と思われる)から討って出ることになりました。

三方から攻め、敵勢へ近づいて、かわるがわるに戦おうという計りごとでした。
〜 中略 〜
一方、義家朝臣は、大軍を率いて、

清水特の麓まで進み給う際、出羽から奥州へ飛んでゆく雁が、出羽の方の峠の麓とおぼしきあたりで、さんざんに列を乱しました。

合の原分校・・・・低学年のみの分校とのこと

紅花の写真によく出てくる岩山

高沢の方に向かう途中の茅葺の家

茅葺の家

2002/07/07撮影

 紅花は村山地方の特産物として全国から知られたもので、藩の財源上重要な作物でした。
紅花の産地として、相模、出羽、上総、筑後、薩摩など知られていたが、出羽の紅花は品質もよいので全国の約半数を占めていたという。

2001/07/08撮影

紅花は酸性をおびた肥沃な土地で、開花期には適当な雨量があって、朝露のかかる場所が最適だといわれ、高瀬地区などはその適地だったという。

高瀬からどれ程の生産があったかは記録がないので判らないが、宝暦頓には山形近郷から一千駄以上移出したといわれている。

 紅花の栽培は仲々むずかしく、豊凶の差が甚しく、日照りや花時に両が多く降ると、半作にも達しないといわれていた。紅花の一駄というのは、三十二貫匁の包みを一駄と計算したという。

故斎藤留三郎さんの本から
孫の了承とって掲載

 村山地方で.紅花栽培が盛んになったのは、他の物に比し収益がよく、換金作物であったからという。然らばその収入はどれ程かというと、

紅花一反歩から干花が平均四貫及位とれ、千花四貫匁の大体の相場は一両一歩で、弘化四年(一八四七)頃、

米一俵は金一分と六百文位であったので米二十俵位に相当したという。(価段は時代によっても相違あり)

故斎藤留三郎さんの本から孫の了承とって掲載

維新戦争と高瀬    (斎藤留三郎)

「漆山陣屋の戦闘状況」
 明治維新の戦闘当時は漆山陣屋は、館林藩で、代官は佃八郎左工門と妹尾友之進が交代で勤務していた。慶応四年閏四月には佃八郎左工門が勤務し、役人は五十人位居たのである。
1、館林藩内では.勤王と佐幕派に分れて内紛の為容易に参戦定まらなかったが、慶応四年二月に勤王派につくことになったので、漆山陣屋に於てもその対策をした。
2、官軍が宇都宮攻撃のとき、総督岩倉具視が館林に行き、出兵を命じ佐暮掃蕩戦に参加することになった。
3、漆山陣屋には野砲一門、小銃旧式二挺あるのみであったという。
4、庄内軍が最上川の西岸に進出した時、漆山陣産品ら、妹尾友之進を隊長として、約三十名と農兵軍夫を徴発して蔵増に向けて守備に当ったのである。軍夫、農兵の内高瀬地区からも翠兵徴発されて、最上川畔の守備に参加した人も居たが、敵の銃丸は最上川を越えなかったという。
5、明治四年四月二十日、夕蔵増村に進み、官軍の将篠崎藤次郎の指揮に従って二手に分けられ、一隊は漆山の将兵で最上川岸を守り、一隊は天童藩兵と合流し、蔵増村より約二十丁程下流を守備に当たった。
6、この日は雨が連日降続き、夕方になって暗黒で偵察も出来ない有様であったという。四月二十八日敵を捜る意味で野砲三、四発々砲したが、応ずる気配がなかった。
7、四月二十九日になっても敵の進撃がないので、同夜は蔵増杓名主の家を我が軍の本部として七、八人が交代で守備番に当った。この時対岸から敵が発砲するようになったので漆山音兵も発砲し、閏四月三日迄互いに戦争状態が続いた。
8、閏四月三日の夜中、敵は俄に増兵し、翌四日未明情報によれば、最上川上流を守る山形兵、柏倉隊が激戦、破れて退去したので敵は最上川を渡り東岸に進出し。漆山藩兵に向って進撃して来るとのことであった。その内敵は間もなく漆山藩兵の後にまわり、うしろを遮断すると共に小砲を乱射しながら迫って乗たのである。
9、漆山藩兵は支え切れずに大敗した。この戦で大砲隊長梶塚勇之進及び郷軍二名戦死す。漆山軍兵は所々に逃走し農家その他に匿れて日暮になって漆山陣屋に帰ったのである。梶塚勇之進の戦死場所は現在村山橋の東方約二〇〇m位の畑地である。

二、漆山陣屋の婦女子高瀬に避難

閏四月日、最上川東岸に進出した庄内兵は、漆山陣屋に向って来るとの情報があったので、漆山陣屋は狼狽極度に達し、妻子老人を上東山の見滝寺に急遽避難させた。家族人数等明かでないが三十家族位ではないかと語る人もいた。
 見滝寺の住職、二戸康堂の語る処によると、津山陣屋の若者結城治郎外数名の足軽に家族の着替の衣類荷物と、三個の箱入れの重そうな荷物を運んで来て、屋内の土間庭にあったムロ(土倉)に入れてこれは極秘のものだから他人語ったり、ムロの破目板を開けて見るようなことをしてはいけない。また陣屋の奥方がここに来ていることを人々に語ってはならぬ、これは代官様の命令である。これに違反すると厳罰に処せられるぞ、と申し直に立ち去ったという。残った子供は寺門前の神明神社の処に出て、敵の見張りをし、婦人たちはムロの見張りをしていたという。
 天童も敵の放火の為に焼かれたので、藩臣の家族は堀田藩の領地である荒谷に避難したが、高瀬村下東山村、田中の石山孫六方若干名の天童藩の家臣の家族が避難したと聞いている。
 尚天童藩は伊達藩との親交もあったので一部の家臣が笹谷村に避難した。

三、高瀬地区の最後の藩主

 秋元家、上野館林、六万石、譜代
 秋元家はもと徳川家康に仕え、関ケ原の合戦で上杉景勝を帰服させた功によって、上野国群馬郡総社の地を賜った。その後家康の信を得て加増を賜り、身辺の護衛、豊臣の残党の探索にしたかった。
貫永十年(一六三三)甲斐国都内の城代となった。
 泰朝の後、秋元氏は喬知の代となり、柳沢吉保の後をうけて、川越に移封、その後涼朝の明和四年(一七六七)に、山形へ転封し六万石を領した。館林藩は勤王がさかんで、礼朝紀伊で幕府の官軍策に家臣を参加させた。やがて東征軍に二万両と砲二門、砲兵をさしだして館林は東征軍の本営ともなった。藩も出兵、各地転戦賞与一万石を賜った。長朝、泰朝、富朝、喬朝、喬房、喬永、涼朝、永朝、久朝、志朝、礼朝で、明治維新を迎えたのである。