まほろばの緑道(旧高畠駅まで)


2023/07/17

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世の中はインボイスで揺れる2023年7月、車にチャリを積んで高畠駅、太陽館にやってきました 自転車道の案内はあちこちにありますが、どこが正式な道なのか分からずにウロウロ 高畠高校のほうに行くべきところ、南の米沢方面へ進みました
奥羽本線の踏切を渡って線路の東側へ
このあたりは工場が多いです
高速道路の下をくぐります 自転車道の入口近くに高畠高等学校があります 自転車道の入口です。自動車は進入できません
自転車道は県道384号線になっています とりあえず『浜田広介記念館』へ向かいます
童話とりんご、石の芸術品なのです
ちょっとの時間で『浜田広介記念館』へ到着
以下『浜田広介』Wikより引用 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。また1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に『黄金の稲束』が入選したのを機会に、
コドモ社の児童雑誌『良友』から童話を発表するようになった。翌年に廣介は『途暗し』で北村透谷賞を受けたりするが、やがて童話作家を志すようになっていく(この間、鈴木三重吉からの『赤い鳥』への参加呼びかけを断っている)。 1918年(大正7年)大学卒業後にコドモ社に入社し、児童雑誌『良友』を編集、自らも童話を書くようになる。1921年(大正10年)、島崎藤村の紹介で実業之日本社に移り、『幼年之友』を編集する。 同年処女童話集『椋鳥の夢』を刊行。1923年(大正12年)の関東大震災による退社をきっかけに作家に専念した後も同誌から多くの童話を発表した。1925年には早大童話会を立ち上げた。1928年に結婚。 1940年、日本文化協会児童文化賞受賞[4]。1942年、野間文芸奨励賞受賞。
1953年、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、鳥越信と古田足日を中心とした「少年文学宣言」が発表され、未明と廣介は「古い」児童文学として否定されるという憂き目に遭う。
1957年と1961年に産経児童出版文化賞を受賞。1972年に名誉町民に顕彰され、庁舎前に「回顧の碑」が建つ。
1973年、前立腺癌のため東京都大田区田園調布の自宅で死去。戒名は廣徳院殿童愛錦謡居士。
廣介の作品は「ひろすけ童話」とも呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容で、教科書や絵本で親しまれている。
1989年より故郷の高畠町に記念館が建てられている。
エピソード
自作の詩「日本橋から」は古賀正男(政男)が無断で曲をつけ、佐藤千夜子の歌でヒットした。のちに著作権法に抵触すると聞かされた古賀が廣介に謝罪したが、当の本人はそんなことも知らず、2人で大笑いした。
引用しているうちにチャリは高畠町立屋代小学校に到着
この地域は『ああ野麦峠』のモデルだった長谷川製糸工場がつい最近まで建っていた場所で、現在は更地になって、喫茶店を営業しているようだ
サイクリングロードは屋代川まで北上し、ぶっつかりから南東に戻る 街の中の旧高畠駅付近の水が溜まった公園に着く
ここからはおなじみ山形交通旧高畠駅で、いろんなサイトにいろいろ書いてありますので、これでコメントは終わりです もっと北上して蛭沢湖まで行くには、この日は暑すぎて、熱中症危険のため、ここから太陽館に戻りました